日韓談話室 代表世話人 木内 孝
新學問のすすめ : ニューエコノミー 等の著者
崔書勉氏の在日三十年をお祝いする会
発起人代表 木内信胤氏 の御子息
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前 代表世話人 橋本 明
われわれが尊敬する崔書勉博士によると、日韓談話室は 1996年より寺田佳子、小河原夫人、元矢次一夫秘書らと相談して出来上がった。 「橋本明君は二度目の会合の時から参加している」。
1957年ヴァチカン亡命を目標に日本に緊急避難したころ世話になった田中耕太郎最高裁長官、作家藤島泰輔、農政学者木内信胤らを次々と失い、特に関係が深かった日韓協力委員会の小河原事務局長との絆が切れて以来、寂しさが募る日々だったのであろう。
では、と寺田佳子が声を上げた。 「崔書勉先生を囲む日韓談話室という名で懐かし方々にご案内し、ほぼ定期的に集って日韓問題を勉強しよう」 と。
合意成立の一瞬はこのような空気であったという。
その後一体何回会合を重ねたか、多くの記録が貴重な案内書、写真の形で森松氏父子が経営する国際マイクロ社に眠っている。 森松義喬現社長もいまや世話人の一人、ホームページを立ち上げ、活動を多角的に展開する方針が現在の世話人会議で固まった。
何気ない会話から生まれたエピソードを元に記念特集も二度の発行を数えている。 2015年は日韓国交回復50年の節目にあたり、記念座談会を開催しようと統一日報社の紙面を借りて準備を進めている。
特定のテーマに絞るのではなく、血の通った体験をそれぞれが持ち寄り、語ることによって、ほのぼのと両国の絆を深められればと願っている。
2015年 平成27年 3月 吉日
★金鐘泌氏 曰く 2002年11月11日 来日 大平氏との会話
「日韓請求権並びに経済協力協定」 (記録)
★日韓談話室: 「天皇訪韓の是非」 2008年 動画
★投稿: 『仲間を失う心』 2015年 平成27年2月
★出版物:
『知られざる天皇 明仁』
2016年 平成28年11月 著者: 橋本明
『韓国研究の魁 崔書勉』
2017年 平成29年5月 著者: 橋本明
●橋本明様の出版物は他多数
※ 代表世話人 橋本明様は2017年平成29年8月
多腎臓不全にてご他界されました。
橋本明様の日韓談話室における多大なるご貢献を称へ
こころよりご冥福をお祈りもうしあげます。日韓談話室一同
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初代 代表世話人 兼 事務局長 寺田 佳子
- 崔書勉先生を囲む会 - 日韓談話室は1996年春、日韓協力委員会の勉強会で 私 寺田佳子が幸運にも崔書勉先生と久し振りにめぐり合ったのがきっかけとなり、日韓協力委員会専務 小河原史郎氏の急逝でひとくぎりになった私の心が大波に動かされたのです。
小河原氏を偲ぶ会に集まった崔書勉先生、越智通雄先生、李大成公使、堀渉氏等々の日韓を愛する人々との集い、勉強会を、との心強い声に導かれ心からの日韓交流を心掛けて行きたいと崔先生の広い広い学識を頼りに女二人小河原氏夫人清子さんと私が呼びかけ人となりました。
生前小河原専務からの指名に後押しされ、以後は私のライフワークになりました。 素晴らしい高邁な目的や規約を作るような会ではなく、本当に市井の女二人
崔先生方を頼り 1996年10月 第一回の勉強会をスタートさせました。
次にスタート時の文言をご覧いただき ご理解下されば御賛願えご協力も頂けると存じます。
2015年 平成27年 3月 1日
※ 初代の代表世話人 寺田佳子様は2016年 平成28年2月
癌にてご他界されました。
寺田佳子様の日韓談話室における多大なるご貢献を称へ
こころよりご冥福をお祈り申しあげます。 日韓談話室一同
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世話人 山下靖典
世話人 渡井幹子 (兼 二代目事務局長)
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事務局長 森松義喬 (兼 世話人)
(HP作成担当者)
● 日韓談話室
は、【日本国】 と 【韓国】 の政治・経済 等の環境が かつてからどのように変化しようとも 双方の有識者方が、崔書勉先生と橋本明氏等を囲みながら「談話する」
ことを諦めずに より本音を話し合える集まり。
日韓の正しい交流無くして 「世界の平和」 はあり得ません
本気の人達の 「談話」 の場です
● 【目的】:
【日韓、東アジア、世界 のより平和を目指そう】
【殺し合い・憎しみ合い・利益の争奪合い、をもう止めよう】
約46億年前 地球誕生(地球の大きさ=直径 約1万2756㎞)、
約700万年前 アフリカで生れた祖先がゆっくりと進化し
人間はチンパンジー等の類人猿と共通の祖先から枝分れして進化、と推測。
その後 、、、
・中国大陸・朝鮮半島等から海を越えて来た「弥生人」が、日本国内にて 現地の
「縄文人」
(約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代)
(縄文時代は 弥生時代も含め戦争が1/5以下?)
(縄文時代に世界でも特異なほど長い平和が続いていた)
を大量虐殺等、大きく人種交代させた人間達
(最新のDNA鑑定・遺骨調査等で更に明らかになる)
・白村江の戦い で多くの死傷者を出させた人間達
・元寇のおり、壱岐対馬 等の原住民を虐殺した人間達
・文禄 慶長の役 (唐入り)
(壬辰丁酉の倭乱)で 大変多くの死傷者を出させた人間達
・それぞれの戦争の被害者・加害者の人間達
・関東大震災時、
「15円50銭」等を言わせ 言えない人を虐殺した人間達
・ 「お互いを助け合った」人間達 (芥川龍之介氏 曰く)
などなど 、、 、 どちらも同じ 「人間」
今 私達の身体の中には
被害者であり、加害者であり、
事実を知る人、知らぬ人、知らぬフリをする人、も含め
父母、祖父祖母、と たとえば
30代遡ぼるだけでも
20億人間 以上 【2^31-1】。
(1世代30年とすれば、900年前…西暦1120年台)
60代遡ると 230垓人間 以上
2,305,843,009,213,693,952-1 人間。
(1世代30年とすれば、1800年前…西暦220年台)
今 生きている私達には
とてつもなく膨大な 「人間の血」 が 引き継がれている。
その事実を 世界中の皆で「確認しあい」、 そして今
世界中からより叡智ある人物(知恵者・知識者)等が集まり、
「武力」で世界をまとめようとされている一部分の方々に
「寿命」を語り、また「次の戦争の没発」 をさせ無いよう等
説得するグループは 国連様しか無い。
国連で世界各国の知恵者で 「談話」 し、未来の為に
「より平和の世を」 作らなければならない。
第三次世界大戦が本格的に始まる前の、人類 最後の 「時」 。
このHPを見る各人、
その立場や職業も大切ではあるが、一人一人が 「世界平和に向けて」、国際連合に所属する各人に「本来の意義」を思い出させながら絶えず更新してゆこうとする
国連に言動する、ラストチャンス。 最終的には各国別の輸出入の「金額・コスト」の決定等も国連で談話(各AI も含め)して決める事が必要となろう。
その為に、開発されるインターネット・各SNS・AI 等で よりタイムリーに 「本音を談話し合える、決定できる、実行できる」 時代、と成って来ている
と思いたい。
● わたくし森松義喬の先祖:
父方 森松家 母方 山本家、近い親戚 笛田家 西木家 江良家等の先祖も 九州の福岡県八女郡の出身。 江戸時代以前から森松姓を名乗る。 江戸時代(元禄以前のお墓は調査中)
からの森松家ばかりの墓石の中には守松姓と小西姓も一部であるが在る。 森松義喬の血の中には、九州の百姓・地方豪族・士族 等の血縁があります。
父没後に母曰く 遠くは桓武平家との血縁もある、との話し。
【桓武天皇の生母は韓国 百済 武寧王の末裔、との話し】
ゆえか 隣接国であり 同じモンゴロイドでもある日韓関係にご縁を感じております。
※ 『崔 書勉先生と私』 の 森松義喬の寄稿文
55周年 ・ 60周年
以下 時系列
●1986年:
崔書勉先生と初対面、
父 森松幹雄は国際マイクロ写真工業社の創業社長。 (1962年創業 :同年10月に森松義喬が生誕)
国際マイクロ写真工業社は、1980年以前より外務省外交史料館様にて閲覧者様の複写サービスをご担当させて戴いております。崔書勉先生は国際韓国研究院長であり
1980年代から外交史料館様等に閲覧者として歴史資料のご研究を成されております。それら崔先生の複写のご依頼等を当時営業部・23歳 (1986年)
であった義喬が、父(創業社長)に紹介して戴きました。
それが崔書勉先生との最初の出会いとなりますが、昨日の事のように鮮明に記憶しております。
●1999年:
日韓談話室に森松義喬は正式に参加。 後日 世話人としてご用名いただき、その後 寺田佳子様ご他界の後には日韓談話室の事務局長として、崔書勉先生をはじめとし会員の皆様方からご推薦を戴きました。
浅学菲才・若輩者ながらも、ゆくゆく、事務局長として働ける事、そして 「日韓談話室」 の存在・記録を世にHP(2015年から)で公開させて戴く、という光栄に
心より感謝申しあげます。
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●2002年:
崔書勉先生のコネクションゆえの金鐘泌氏の 記録。
(橋本明様記載)
日韓談話室のメンバーの一部分 曰く:
「日韓請求権並びに経済協力協定」 金鐘泌氏と大平正芳氏
の合議にもとずき、膨大な費用を韓国にサポートした日本。
「おかわり」 をいつしか日本に要求するようになった
韓国の政治家の一部。
どうあれ、日本は今後 世界中の各国々と差別・区別 少無く、どこまで誠実に対応すべきであるのか?
各国の 考え・思い・力量等も多く試されております。
世界中の人々が フェイクニュース に踊らされぬよう注意を払いながら、各国の 「一挙手一投足」 を見ていてくれている。
それらに恥じない国際関係の構築が、日本も含め 各国 急がれている。
●2015年:
HP(ホームページ)で日韓談話室 -崔書勉先生を囲む会-
をとは 、、、 1999年 平成11年 当初、夢にも想わず。
しかしながら、その談話の緊迫した場、和やかな場、を私し (モリマツ) は誰に頼まれること無いままに 平成11年末より (ほぼ皆勤賞) 1万枚以上の画像撮影等を行っておりました。
(日韓談話室の会合の第15回位~85回の最後まで)
それら厖大な画像等をHPで掲載する事も叶いません。
(20数年に及ぶボランティア活動ですが)
画像集 (1日3画像に厳選) を含めたHPの作成担当をさせて戴きます。
以上
●伊藤博文氏 と 安重根氏:
「世界の平和」と同時に「極東平和・東洋平和」を進めてゆく。
手法は違えども伊藤博文氏と安重根氏の共通していた 「東アジアの平和」 への想い。 その目的を共有して日韓隣国同志で 「談話」 を試みる日韓談話室。
日韓談話室のメンバーは
日本や韓国の歴史を研究される研究者、政治や国際友好を通して日韓間に携われる方、日韓に関わり等がある有識者方、またはそれら会員からのご紹介者で成り立っております。
目先の私利私欲を超越している談話室メンバーの目標志向性、
崔書勉先生と橋本明氏 他メンバー全員の談話の場。
本HPにて毎回の 「案内状」 と 「画像」 のご案内により、日本国と隣国 韓国、そのあいだに 「談話」 を諦めずに継続している人物達が在る、
という事実が確認できます。
日韓は お互いの民族の立場 になれずとも、
平和となる方法はある。
第1回 ~ 第85回 (1996年から2019年) ・そして現在にわたり、「日韓談話室」 が存在している記録の一部を このHPに記させて戴いております。
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●マッカーサー元元帥:
連邦議会での離任演説(1951年4月19日)
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2378/
マッカーサー元 元帥曰く:
「人間は、有史以来、平和を求めてきた。国家間の紛争を防ぐ、あるいは解決する国際手続きを作り出すため、さまざまな方法が時代を超えて試されてきた。個々の市民に関しては、当初から実現可能な方法が見つかった。しかし、より広い国際的な広がりを持つ手段の仕組みは、一度も成功したことがなかった。
軍事同盟、勢力均衡、国際連盟など、すべてが次から次へと失敗に終わり、残されたのは戦争という厳しい試練を経る道だけだった。いまや戦争の徹底的な破壊力によって、この選択肢も閉ざされてしまった。今が最後のチャンスだ。もっと優れた公平な制度を我々が作り出さなければ、ハルマゲドンは玄関口に迫ってくるだろう。問題は、基本的に神学的なものであり、過去2000年の科学、芸術、文学、そして物質的、文化的発展の、比類のない前進と同調する、精神的再生と人間性の改善に関係している。肉体を救おうとするなら、それは精神を通してである」
◆フィリピン:
極東におけるキリスト教の強大な防波堤となっており、アジアにおいて道徳的に強いリーダーシップを発揮する無限の力を秘めています。
◆台湾:
政府機関に多数派が代表を出すという公正で賢明な政権を戴いており、政治的にも、経済的にも、社会的にも、健全で建設的な路線に沿って進んでいるようです。
◆韓国:
世界中の国で、これまでのところすべてを賭して共産主義と戦ってきたのは韓国だけです。
韓国人の勇気と不屈の精神は見事であり、筆舌に尽くせません。
◆日本:
日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知りません。
また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。
●未来・今後をつくる: (日韓談話室一部の方のお言葉)
【日本は韓国等 ともども、民主主義を基本として機能するよう WEB を通して全世界中に説明すれば 「世界中が善処出来る切っ掛け」 となろう】
【 神ならぬ人間の、一個人の、どんなに優れた国・世界の運営・采配も、「その寿命」 を考慮すると、「民主主義 ・ 世界共有の法律の更新に行き着く」
】
との言葉が在る。
※ 本HP:
は、1996年から 日韓有識者による談話の場 の 「存在」、
それら記録一部分の公開、
「目的」 に向かっての考えの一部 等を記しています。
※ 本HP:
は、私くし森松がHPビルダーで仕事合間に急ぎ作成。デザインやセンスの無さはご容赦下さい。
画像は粗い画像。 (顔認証しにくいレベルに)
(日韓 談話室の動画記録はほとんどありません)
※ 直近の記録:
は上記の 画像集の下段 に記載しております。
● 橋本明 様 (日韓談話室 代表世話人)
は2017年平成29年 8月13日 多腎臓不全により 84歳 ご他界
(1933年~2017年)
● 崔書勉 先生
は2020年令和2年 5月26日 癌により 92歳 ご他界
(1928年~2020年) (韓国にて)
※ 安重根氏の命日は1910年3月26日でした
※ 2020年5月 コロナ禍により、韓国への葬儀に日本人は
一切立ち会えず とても残念です。 2020年 令和2年5月
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