仲間を失う心     橋本明
 


 北朝鮮が長距離ミサイルを発射、人工衛星とロケットが地球を周回し始めた当日の夜、日韓関係深化と改善に尽くしてきた一人の女性の通夜がしめやかに行われた。日韓談話室世話人寺田佳子。ソウルから彼女が尊敬止むところのなかった学者崔書勉博士がかけつけ、別れを告げた。

  日韓外相が最終的かつ不可逆的解決をまとめた昨年十二月二十八日、「私たちが今後すべきことは高尚な国家関係の保持と発展ね。これで天皇さまの訪韓も現実味を帯びて来るでしょう」と喜びを伝えてきた。七十六歳の誕生日を迎えたばかりだが、がんに侵され喉に空気穴を通してがんばってきた寺田さんも力を失ない、「早くあちらに連れて行って」と懇願するほどやつれて、往った。

  一昨年秋、寺田と私は連れ立って韓国大使館に新任の柳大使を訪問した。この時大使の元に朴槿恵大統領から、親書が届いていた。大使によればニ○一五年春に予定されている皇太子殿下訪韓(国連水問題委総会)

がスムーズに運ぶよう韓国政府としてお待ちしているという内容である。大使はその後信任状奉呈の際口頭で陛下に直接申し上げた由である。さらに天皇誕生日の祝い席では皇太子に直接お会いして韓国政府の趣旨を述べた。

  日本政府からも宮内庁からも何ら返事が無く、私は大使館筋に頼まれて探りをいれてみた。結局外務省が握り潰す形で一蹴したいきさつが明らかになった。昨年六月二十二日の日韓国交正常化祝賀会は東京とソウルで記念式典と行事が繰り広げられたものの、両陛下と皇太子ご夫妻など皇族を招いて開く予定だったサントリーホールにおける記念音楽会には高円宮妃一人が見えただけで終わった。宮内庁式部官長に聞いたところ、「もともと皇族のどなたかのご臨席を仰ぐとなっていました。両陛下は呼ばれていないので他の行事出席が固まっています」という思いがけない返事だった。一国から他国へ渡された招待状中身が偽計されて宮内庁に届いたことになる。それほど日韓関係は冷え切っていたのだ。

  この音楽会には韓国が誇るオペラ歌手ス・ミ・ジョーを女流指揮者西本智実が迎える形で実施された。寺田も共に聴いた感動的な演奏会はすべて韓国政府が借り切り、全席招待状受領客で占めるという、まさに大韓民国側の熱意で実現したものだ。こうした前向きの姿勢に対し、日本政府はリターンコンサートをソウルで開くべき立場にありながら、何もしていない。国交正常化に真摯な態度で臨むつもりなら、外交儀礼としても日本政府持ちの演奏会を開催すべきであろう。

  故人が全身全霊を込めて接してきた崔書勉博士は九十歳の高齢である。李承晩に追われヴァチカン亡命を目指しながら田中耕太郎最高裁判所長官に説かれ、彼自ら申し出た身元保証人の下、日本に滞在し、韓国学を極め日本学を収めた人物だ。岸信介首相の切り札となり、ソウルに腰を据えて交渉に当たった矢次一夫国策研究所長、さらには政財界の間で崔書勉は著名な地位を築き上げる。

  東京韓国研究院が設立されると、日韓協力委員会を仕切っていた小河原専務理事と特に懇意になった崔博士だった。この専務が急逝したあと当時活躍していた小河原清子夫人らと日韓談話室を立ち上げたのが寺田佳子だった。岸首相秘書を務めた堀渉氏を代表世話人に迎えた談話室が

「崔書勉博士を囲む」任意団体と位置付けたのも寺田だった。

  ソウルに崔氏の拠点が移ったのち寺田は日韓連絡窓口となり、博士の来日希望が固まるたび、東京で勉強会を開催した。まだ国会議員になったばかりの朴大統領を二度に亘って経営する仏料理店シャルトルーズに招いた功績は一段と光る。

  ダカラと言っていいだろう、朴議員は訪韓した日韓談話室一行を国会に招き昼食会をもよおしている。その頃代表世話人となった私も末席に連なる栄に浴した一人だ。李承晩より一足先に独立運動の長となった金九の墓参、戦後二代目の駐韓大使になった金山の墓参などいつも先頭に立って努力を惜しまなかった寺田を失い、実は呆然としている。

  崔博士の知己は殆どが鬼界に席を移した。寂しげな様子を見るたびに私は彼の生命が続く限り、いつでも暖かく迎える場を用意しようと願い、仲間と語らって談話室存続の方途を決めた。寺田が言い残した願い、天皇訪韓を何とか実現しようと思う。崔書勉さんも「私の目の黒いうちに両陛下をお迎えしたい」と言い切った。