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日本大学 学祖 山田顕義
日本大学 : 日本法律学校の設立 (5分2秒)
Record
カウントスタート2021 7/4 ~
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第57代 |
第58代
昭和56年度卒
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第59代 |
第60代
昭和58年度卒
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第61代
昭和59年度卒
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第62代 |
第63代
昭和61年度卒
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第64代 |
第65代 |
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「N」は胸バッジ 他は襟バッジ
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1年生
真っ白 |
2年生
未だ青い |
3年生
情熱の赤 |
4年生 ・ 幹部
黒帯・達人
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1~3年生 全日本学生応援団連盟(拡大) : 4年生 應援團バッジ(拡大)
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日本大學應援團は
明朗と歓喜に満ちた学園民主化の推進力にして
本学興隆のための原動力となり
全学園団結の核心である
故に本團團員は相互の親睦友愛の精神を堅持し
人格の陶冶を図るとともに
裡に烈々たる闘魂と限りなき知性を養い
信義を重んじ大勇を尊び礼儀を尽くし服装を正し
以って学生の師表たらんことを念じ
その目的達成の為に全力を尽くさんことを期す
(前文)以上 押忍
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日本大学校歌
(作詞 相馬御風 作曲 山田耕筰)
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一 日に日に新たに 文化の華の
さかゆく世界の 曠野の上に
朝日と輝く 国の名負いて
巍然と立ちたる 大学日本
正義と自由の 旗標のもとに
集まる学徒の 使命は重し
いざ讚えん 大学日本
いざ歌わん われらが理想
二 四海に先んじ 日いづる国に
富嶽とゆるがぬ 建学の基礎
栄ある歴史の 道一すじに
向上やまざる 大学日本
治世の一念 炎と燃ゆる
われらが行く手の 光を見よや
いざ讚えん 大学日本
いざ歌わん われらが理想
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一 若き血潮に満ち溢れ みなぎる闘志胸に抱き
栄えある歴史の日大を 背負うは我らが使命なり
二 桜並木の丘の上 固く誓った旗じるし
一致団結そのものを 心に刻んだ応援団
三 団旗が揺れるぜ春風に 声が響くぜ天高く
明日の勝利を夢にみて 母校に捧げるこの命
四 伊達には着けないこのバッジ 声で肩つく意気のよさ
押忍のあとつぐこの誉れ 声高らかに声あげよ
五 鬼より怖き先輩の 情あるよな愛の鞭
見せてなるかよ我が涙 愛する母校の為じゃもの
六 我等が望んだこの道は 母校の勝利を願うため
苦しさ悲しさ踏み越えて 顔には出さない男伊達
七 押忍と共にわが命 捧げ祭らん日大へ
泣くも笑うも共々に 応援団には夢がある
応援団には夢がある
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東に大利根の清流をそそぎ 西に霊峰富士を仰ぐ
ここ大江戸神田三崎の杜に 毅然とそびえ立つは
我が日本大学である
青山謳歌の元に馳せ参じ 明日の日本を背負いたつ
我が応援団の強者共が 此処に集いて声高らかに
日大節の一節を
いざ歌わんかな舞わんかな いざ 狂わんかな
エッサコリャコリャこの俺は まかり出ましたこの俺は
日大一の色男
エッサコリャコリャこの俺は まかり出ましたこの俺は
日大一の強き者
エッサ見てくれこの体(からだ) 柔道で鍛えしこの体
エッサ見てくれこの腕(かいな) 空手で鍛えしこの腕
前から来い 後ろから来い
前から来る奴 ワンパンチ 後ろから来る奴 背負い投げ
エッサコリャコリャ日大名物数あれど
数々あれど数あれど 数ある中の日大の
日大節の一節を
皆が揃たら日大節だよ 日大節は一拍子
ここは神田か東京の街か 東京の街なら大学は日本
大学日本の学生さんは 度胸ひとつの男伊達
度胸ひとつで神田の街を 歩いてゆきます紋付袴
紋付袴は日大の育ち ぼろは俺らの旗印
ぼろを纏えど心は錦 どんなものにも恐れはせぬぞ
どんなものにも恐れはせぬが 可愛いあの娘にゃ敵やせぬ
可愛いあの娘もいつでも捨てる 母校の為なら命までも
命捨ててもその名は残る
大学日本のその名は残る
大学日本のその名は残る
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一 箱根山からネ 眺める華はネ
花は花でも 花は花でもネ
江戸の華 ヤレサノサ
粋な白線にゃ黒マント
ガラガラガラリは下駄の音 サッサガラリとね
二 大江戸日本橋ゃネ 日大の流れヨ
橋は橋でも 橋は橋でネ
日本一ヤレサノサ
粋な白線にゃ黒マント
ガラガラガラリは下駄の音 サッサガラリとね
三 神田下ればネ 日大の香りヨ
知らぬ人さえ 知らぬ人さえネ
知るものヤレサノサ
粋な白線にゃ黒マント
ガラガラガラリは下駄の音 サッサガラリとね
四 日大の森からネ 飛び立つ鳥はネ
鳥は鳥でも 鳥はトリでもネ
天下取りヤレサノサ
粋な白線にゃ黒マント
ガラガラガラリは下駄の音 サッサガラリとね
五 日大の健児がネ 乱舞をすればネ
地球の自転が 地球の自転がネ
狂い出すヤレサノサ
粋な白線にゃ黒マント
ガラガラガラリは下駄の音 サッサガラリとね
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一 花の大江戸神田の街で
人にしられた日本大
日本大学応援団の名物ある中 八重桜 八重桜
二 可愛いあの娘の見ている前で
負けちゃならないこの勝負
日本大学応援団の名物ある中 常に勝つ 常に勝つ
三 胸のバッジは伊達にはつけぬ
度胸ひとつの男伊達
日本大学応援団の名物ある中 勝ちの星 勝ちの星
(作詞 東辰三 作曲 明本京静)
一 輝く伝統 母校のために
栄誉担いて 今開く
花の精鋭 日大健児
フェアプレイ日大 フェアプレイ日大
立て 打て 勝て
勝利微笑む 花の日大
二 輝く太陽 燃え立つ意気に
紅染めて 咲き誇る
フェアプレイ日大 フェアプレイ日大
立て 打て 勝て
勝利微笑む 花の日大
三 輝く瞳に みなぎる闘志
あたりはらいて 咲き競う
フェアプレイ日大 フェアプレイ日大
立て 打て 勝て
勝利微笑む 花の日大
第二応援歌
一 戦えば勝つ 伝統の 誇り輝くわが母校
烈々の意気 天をつく たたえよ若さ 示せよ力
日大 日大 いざふるえ日大
二 どとうのごとき 精鋭の むこう所に敵はなし
さっそうの意気 花と咲く たたえよ若さ 示せよ力
日大 日大 いざふるえ日大
三 光と競え フェニックス 風に勝利の 旗が鳴る
豪快の意気 高らかに たたえよ若さ 示せよ力
日大 日大 いざふるえ日大
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(作詞 サトウハチロー 作曲 古関裕而)
一 青きは希望の山の峰 澄めるは心と水の色
富士をば背負い堂々と しぶきをあげて技を練る
歴史は謳う日大の 伝統輝く水の覇者
日大 日大 おお日大
二 葉室と遊佐との昔より 競いて敗れしことぞなく
連綿繋がる水の子の 勝利を目指す大力泳
たたえて強し日大の 伝統輝く水の覇者
日大 日大 おお日大
三 南の里なる河育ち 北なる海辺の潮の子
津々浦々より集いきし 精鋭錬磨のその日夜
今日また勝てり日大の 伝統輝く水の覇者
日大 日大 おお日大
四 水上日本の声明を 守るは我等の肩にあり
記録の更新むねとして 世界の覇者たれ王者たれ
轟け響け日大の 伝統輝く水の覇者
日大 日大 おお日大
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日本大学応援団 記事の一部
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昭和 6年(1931年) 記事
水泳部インターカレッジ 応援
羽織ハカマの応援団が
声をからし応援した
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昭和55年(1980年) 記事
箱根駅伝 応援
応援団 活動復活中
「見せるぞ 男の真心」
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昭和56年(1981年) 記事
第30回 全日本学生応援団連盟
記念祭 :連盟本部校 日本大学
「若さの躍動 汗ダクの熱演」
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第57代
昭和55年度卒
1980年度卒:4名 |
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第58代
昭和56年度卒
1981年度卒:5名 |
1年
可愛く、
何も知らない
一年時代。 |
1年
JODAN
(J が し だった)
世の中は
「理不尽との戦い」 と覚悟
しながら成長するのであった。 |
1年
練習中の竹刀、
骨折させない為の先輩方の、あたたかいご配慮。
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3年
箱根駅伝は
5か所×2 で応援。
「団旗の下を通行人が
通る事 まかりならん!」
とかいう「法律」があるので、 ある。
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3年
♪ 一人はノッポで
あとはチビィ~ ♪
4年生幹部が 「喜ぶ」 or
「飽きる」 まで続く 、、
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4年
高知合宿 於:闘犬センター。
地元OB先輩 「お気に入り」 (賭けた?) "犬" を応援するので、あった。 応援通じて?
土佐司くんの勝ち。
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4年
★ 夏合宿 著者 1年時:
桂浜 高知
高知城にて。
山内一豊氏(千代様)
容堂氏 等のおひざ元。
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4年
日大フェニックス。
ガンガン かっ跳んで
敵無! |
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第59代
昭和57年度卒:0名 |
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第60代
昭和58年度卒
1983年度卒:3名 |
1年
千鳥ヶ淵は 応援団本部の合同の練習場。
週一、約5時間の練習。
「昭和天皇陛下」も皇居から
日大応援団の練習をご覧になっていらした?
「御視線」 らしきものを
何度か感じました、ので
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2年
練習場は皇居 千鳥ヶ淵。
(大声の文句が無い為)
田安門にて集合中。
一学年毎に30分前に集合。 |
3年
伊豆の今井浜。
合宿のひととき。
タバコが うまいッ!
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3年
★ 夏合宿 著者 2年時:
今井浜・河津浜 伊豆
今日で合宿が、終わる。笑笑 |
3年
靖国神社にて
第31回 全日本学生応援団連盟の写真、となる。
靖国神社で撮影、しかし
日大応援団は
思想教育は無い。
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第61代
昭和59年度卒
1984年度卒:3名 |
1年
大学内の団室が無くなった。
新入生強制勧誘でOUT。
なので毎月バイト代をかき集め、神楽坂の小便小路街へ。
四畳半の新しい団室。
(極貧時代!) |
2年
一年坊主は夏季合宿で
完全に人格が変わる。
自分が勝手に決めてた
「限界」を諸先輩が完璧
に超えさせて戴ける。
甘い限界を自分で決めて
いた事、に気が付く。
体力がなくとも
「男の意地」があれば、可。
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3年
★ 夏合宿 著者 3年時:
根本キャンプ場 千葉館山
夏季合宿中の撮影時間は、
ひと時 のお休みタイム。
そして次への準備タイム。
(五厘狩り3人が3年生)
笑顔は無い世界。
新品の太鼓の牛革!
これから赤、
そして焦げ茶色。
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3年
新宿歌舞伎町ミラノ座前での
校歌。
♪ 「日に日に新たに~」♪
って知らないオジサンも
歌ってた。ワッハッハッ!
山田顕義門下生、
世に出よ! |
3年
六本木マンションが 新しい
団室に!
(OB先輩の計らい)
練習前の新リーダー長は
とっても静か |
4年
後輩一名、笑顔?(太っ腹‼)
練習は腕立て伏せ
二時間の刑。
(暇なんで、校歌・各応援歌、
数十回うたえたネ) |
4年
学園祭でヤキトリ屋。
何屋やっても必ず儲かる。
「3分あげる、10皿
売ってきて チョ!」 |
4年
硬派は、モテる。
が、無為には遊ばない。
武士は食わねど、高楊枝。 |
4年
「学ラン禁止」 との通達、
なのでトレーナーでの応援。
いつか神宮を日大生で
いっぱいにして
「肩組んで校歌を!」 |
4年
日大・中央・農大・専修
「蛮勇」 と 「勇気」 を静観
できる、世界に通じる、
全日本学生應援團連盟の
幹部連。
普通の人間は此処には
立てない。
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第62代
昭和60年度卒
1985年卒:3名 |
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第63代
昭和61年度卒
1986年卒:2名 |
4年
激安合宿!!
福島飯坂ホテルの大浴場等、毎日団員が超大掃除 、、
ゆえに激安。
(マネしても、可) |
4年
天下無敵! 日大相撲部。
日大応援団の気合いも他大学に負けては絶対にいけない
ノダッ! |
4年
夏合宿にて。
大団旗&中団旗が久々に並ぶ! 今年の一年坊主は根気あるね~。 (少しは鍛えがえあるカナ?) |
4年
勝つぞ 日大!
応援客が居ても、居なくても、ただひたすらに応援。
他人への応援は、ゆくゆく自分の「底力」と、成あ~る。
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4年
4年になると、
髪型が自由。
アフロでもチョンマゲでも、可。
なんて 自由な!
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4年
幹部交代。
たった四年で
「召使い」 から 「神」 に。
激動のドラマを命がけで活きる四年間。
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4年
卒団式。
「母校」への
滅私奉公から
「国、そして世界へ」 の
滅私奉公へ。
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第64代
昭和62年度卒
1987年度卒:1名 |
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第65代
昭和63年度卒:0名 |
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第66代
平成元年度卒:0名 |
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第67代
平成2年度卒
1990年度卒:1名 |
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OB会
及び動画像等
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OB ワッペン |
【本HP作成の目的】
★ 「滅私奉公 ・ 応援団の道」 を歩みつつ、応援団の復活を目指した現役学生達が日本大学に
存在した記録、一部分のみの公開。
★ 10年間 22名 学生の記録、1980年~1990年(昭和55年~平成2年) 学生時代を懐かしんで作成。
(心・技・体を鍛えた体験)
★ 未来 これから を創ろう。
※ 学生時代の基本方針: 日本大学応援団 団則 のとおり
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【日本法律学校 ・・・ 創立から現在】
学祖 山田顕義先生:
は明治維新の原動力となった吉田松陰先生運営の松下村塾、14歳 最年少の塾生であった。
やがて岩倉使節団 理事官、欧米列強諸国の視察等により見聞を広め 伊藤博文氏等と共に
「憲法の作成」 による近代日本国家の統制を目指す。
「法律は軍事に優先する」 と明言し、世界に対して引けを取らない 「大日本帝国憲法の作成」、
その 「重要性」 を説き、実現する。
信条を 和魂洋才 (中庸の精神):
とし、西洋と東洋、一方の法律等に極端に偏らず 過去と未来を熟慮、バランスを注視した。
士農工商等 全てを網羅する 「法律の遵守」 による日本国家の「安寧」、 旧幕藩体制 と 西洋式の
各々の守り事 双方の多くを加味し、日本独自の社会的基盤の 「体制作り」、に奔走。
大日本帝国憲法 発布 明治22年(1889年)の同年、初代司法大臣である山田顕義氏が予算を工面し、
法律を専門に学べる 日本法律学校の創立に到る。 (千代田区 飯田橋にて)
学祖 山田顕義氏、 宮崎道三郎氏 ・金子堅太郎氏 ・上條慎蔵氏 ・斯波淳六郎氏 ・
末岡精一氏 ・添田寿一氏 ・野田(長森)藤吉郎氏 ・樋山資之氏 ・平島及平氏 ・穂積八束氏 ・
本多康直氏 11人の創立者により創立。
初代校長は金子堅太郎氏 (後日 司法大臣) となり 「日本法律学校:現 日本大学」 が始動。
●「識字率 世界最高峰」 :
を誇る日本人(徳川幕府の恩恵が多大)が 江戸から明治時代となり、
新設される多くの学び舎にて国内外の学問の長短を学び、
近代日本国家の安定 そして成長へと繋げてゆく。
当 学び舎から多くの人材を世に出し、日本大学は日本一の 教育内容 ・ 規模拡大 の充実を図る。
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【桜門会】
は日本大学卒業生で組織され 会員は100万人以上、国内大学OB最大級の団体となる。
桜門会員は 民間企業の 「社長」 としても活躍。 出展 (2021年12/21 更新 帝国データバンク)
2011年 日本大学は 社長会 をつくる。 日本大学が掲げる 「自主創造」 の精神に培われ 大学OBに
おいて日本一 民間企業の経営者が多い中 「日大ファミリーの核」 となる組織作りを目指しております。
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【日本大學應援團の興隆】
OB名簿により大正4年から存在した記録が確認できる。
「滅私奉公 ・ 應援團道」
という 他部には無い徹底したボランティア活動であるため、卒団する学生の 「就職率」 は異常に高い。
※ 明治・大正時代の應援活動 (日本法律学校 又は日本大学) の
記録を知る方・写真のある方は、是非ご連絡くださいませ。
第二次世界大戦・大東亜戦争 を前後:
して大学生運動部選手 (オリンピック選手含) の応援、その先陣を切る団員が増大。
「フジヤマ のトビウオ」 古橋廣之進選手 等、日本大學應援團も水泳部選手等を 国民と共に応援する。
日本大学水泳部選手 の金メダル記録の更新は
「欧米諸国に比べて体系が小さいアジア人・日本人、
その 心・魂 に 勇気・プライド を思い起こさせる 非常に大きな機会となった」
と聞く。 日本大学は 「水の覇者日大」 を作成させて 「水上応援歌」 とする。
その後
『 嗚呼‼ 花の応援団 』 (昭和40年代) の漫画 ・映画の影響もあり、日大應援團のみでは無く
他大学の應援團員も増大。 (上記映画の男優への応援指導は 当時の日大應援團員も手伝う)
『日本大学応援団 OB名簿』 :
は平成10年(1998年)4月30日に再発行され、大正4年(1915年)~平成2年(1990年) までの
OB 855名が記載。その内に 大臣・代議士・市長から各組織・企業の管理者等 様々な分野に在る。
本HPの対象 大学公認を目指していた日大応援団員 22名のみにおいても、
(1980年~1990年:昭和55年~平成2年)
「天皇陛下」 や 「経済産業大臣」 等から 「表彰状 ・ 感謝状」 を請ける人材も複数人あり、
また 大企業、中企業、小企業、それぞれの会社の経営に関わる人材など、
大きく社会貢献を成している人が確認できます。
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【現状 ・ 過去(本HPを作成する私達) ・ 未来 これから】
【現状】
●「金メダリスト」:
は、世界中の各競技にて人間の力と技、そして気力の極限に挑みながら 各国の代表となった
TOP アスリート達の目指すところ。
世界一位 をめざすオリンピック選手を多く輩出する日本大学運動競技部。
現役学生選手は 自らの青春・プライド それこそ 「人生」 をかけ、日本人の代表として4年間
凄まじい鍛え方を継続する猛者達であり、「日大健児」 として同じ学び舎に在る。
●昭和45年に 「廃部」:
他大学間との各競技において必ず決まる 「勝ち・敗け」、「真剣勝負」。
その 「勝負」 の世界 を 「真剣」 に応援する学生が集まり、日本大學應援團として形成される。
日本一の厳しい 規律 ・ 気合い、そして規模 を誇っていた と聞くが
昭和45年(1970年) 日本大學應援團は下記のとおり、廃部。
廃部なりにも 平成2年まで
「全日本学生応援団連盟に所属して応援団復活を目指す」 という人材がいた。
平成3年より現在まで、残念ながら日大応援団の復活を唱える現役学生は 無いまま、となる。
●現在は:
中国・東南アジア等の人々が、日本の大学応援団を注目している兆候がある。
九州の大学応援団では、東南アジアの方が 「応援団復活の中心」 に動いている事例もある。
本当は自分の心技体の成長に非常に大きく繋がっている 「本気 ・ 本物 の 応援の凄さ」、
「滅私奉公の価値」 「利他の心」 を 体験を通じて徐々にでも解かってゆく、
そのような人材増大の 「証」 となってゆく。 本当に喜ばしい事である。
●校歌・各応援歌のリーダー:
当然ではあるが、日大には他大学に無い誇れる校歌・応援歌(11分45秒)等がある。
日大ならではの応援リーダーの取り方も含め 可能な限りそれらを伝授できる日大応援団 OBが、
現在は 未だ在る。
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【過去】
●各大学の應援團:
は、昭和30~40年代頃から 大学同士の メンツ ・ プライドを貫くためか
「日本一の應援團は本校である」 という競争意識が高まり、應援團同士の争いが多発。
「泣く子も黙る應援團」 など 世間からは勇ましい風貌等も含め そのように言われた。
應援團以外も含め、特に勇猛果敢であった硬派な学ランとして
「立てば拓大 座れば日大 歩く姿は国士館」 と噂された。
無論、応援団同士では上記の大学の意地の張り合いだけでは無く、関東において精鋭を誇る応援団は
中央 ・農大 ・専修 や 法政 ・明治 等々、群雄割拠。 私達なりの関わりからではあるが
「大学応援団員 日本一」 にふさわしい人物を多く感じとることが出来た。
OBとなっても 「親しき中にも礼儀あり」、 厳しい訓練の成果であろう。
「礼儀作法」 に長けている大学応援団OBが非常に多いことは、さすがであり、
「紳士を競えるような人物」 がほとんどである事はとても頼もしい。
●「廃部」 :
昭和45年(1970年)前から 日本大学應援團と主に他大学應援團 間等において トラブル
(大きな事故も含め) が多発し、その謝罪等により 永久廃部 と大学側は決めました。
しかし、
昭和40年代後半から(大学未公認にも関わらず) 毎年 約10~20名位の学生が日大応援団に入団。
「応援団をやりたい」
「侍のような、荒武者のような、気風をもつ応援団の先輩方を見て」
「日大付属高校の応援団から 大学応援団の正式な復活を」
「ご縁があって入った大学で 何かしたい、と思って」
「怖そうな学ランだけど着てみたい」
「団則 が素晴らしい と感じて」
「勧誘され、なりゆきで、」
「ご縁を感じて、」
など・・・ 当初 各人さまざまな目的と思えるが 日本大学応援団員として集結した。
(1970年廃部 が決定、当然に各学部でのテーブルを出しての正式な勧誘活動が出来無くなったが)
●四畳半の団室:
廃部ながらも 昭和56年(1981年)までは 日大理工学部 (お茶の水) の空き部室を仮団室としていた。
しかし 新入生への強制的な入団勧誘の理由により、理工学部内の仮団室から追い出される形となる。
新しい団室は四畳半、新宿区 神楽坂下の 「神楽小路」 のどん突き。 (当時 みちくさ横丁・小便小路)
【「紀の善」 を右折し約40m先を左折、突き当りにパチンコ景品交換所、その右の古アパート 】
風呂もシャワーも無く 共同トイレの四畳半を 団旗・太鼓等を管理する部屋を自分達で探し、決めた。
当時、アパートの家賃 ・団旗太鼓の補修費 ・バチ等の購入費 ・オシボリの作成費 ・移動 交通費 等々
それらは各団員のアルバイト代から搔き集めての運営である。
四畳半が手狭なほど、他部も含めた 「たまり場」 となる。
その後、OB先輩の計らいで 驚く事に六本木のマンション (千代田線 乃木坂駅 徒歩1分) が
新しい団室となった。 (現在は無い)
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(本HPを作成する私達)
●昭和50年代の中ごろ (1980年ごろ):
私達は入学。当初から既に未公認であった日本大学応援団に入団。 大学の正式な公認を大きな
目標のひとつとして働き、「団則」 を使命として 4年間 出来うる応援活動をとおして動いていた
当時の学生である。
●「他者との派閥争い」:
や 「蛮勇の発揮」 を控え、「弱い者イジメ」 をしないように心掛けて行動。
学内においても 団則にある
「学生の師表たらんことを念じ」 を念頭に行動。
特に 「学び舎」 にふさわしく無い態度の学生が居た場合、注意し 時折 応援団の練習を経験させた。
日大に入りたての1年生:
が、各学部の学生課等に 「強制的に応援団入団の勧誘をされた」 と 何度となく訴えられた様子。
これらの行為の積み重ねも、日大応援団を大学側が解体させる 「要因」 となった様子。
当時、日大応援団の各学部内における存在は 小さくは無く、
大学2年生以上で 「学び舎」 にふさわしく無い態度の学生はとても少ない、と感じる。
その後も強制的な勧誘があった事も含め、大学側の取締りは非常に厳しくなり、
入団後の応援団員のご両親にも 大学側から
「大学側は未公認」 「トラブルが起きても未公認なので大学側は責任を取りません」
等の電話連絡が続く。
私の母は 「本人が決めた事です、と電話に答えているから」 との事。
昭和から平成に近づき、応援団員の縮小と 「反比例」 するように、各学部内の
「素行不良の学生」 (ほんの一部分ではあるが) の 「なすがまま」 が増えた事は言うまでもない。
残念ながら 各新聞社等の 「日大を悪く掲載される事体」 が多くなっている。
●正式な団員:
『日本大学応援団OB名簿』 において
日本大学応援団部長より卒団の表彰等をされた 大正4年~平成2年までの 855名が記載。
仮入部 又は本入部をし、途中で退団した人数を日本大学応援団の 「関係者・経験者」 とすれば、
その数は 5,000~10,000人 (855名の5倍以上) となろう。
1980年前後、日大応援団が大学未公認にも関わらず、
日大には下記 理解ある運動部の 「監督」 が居られ、応援活動をOKと出来た。
日本拳法 ・ ボクシング ・ 箱根駅伝 ・ アメフト ・ 相撲 ・ 水泳 ・ 空手 ・ 野球(時折 条件付き)等
それらの応援活動により、日大応援団の 「応援方法」と「伝統」 を平成2年まで継承する事が出来た。
私達は日本大学側へ 「応援団復活の話合い」 を行ってきたが 認められないまま、
平成3年度以降から、全日本学生応援団連盟に加盟する現役の学生は 皆無のまま、 となっている。
●私個人:
自分の その時
その時の判断 の結果、日大応援団に入る「ご縁」に恵まれた。
4年間、常識・良識のレベルが時として、自分の想像以上に 「低く」、
そして想像以上に 「非常に高い」 事を経験。
現役時代を思い起こせば、母校 (日大健児) を懸命に応援する活動が
「いかに 自分自身の 心・技・体 の成長へと繋がったことか」
という 非常に不思議な体験であった。
「利他の心」:
のまま動く、 集団でも動く、
プロ顔負けの練習を積む日大選手達と近い 「真剣」 さで応援している 「緊張感 」、
仲間達が他大学と戦った時の、自分達の応援を喜んでくれた時の、
自分自身の 「達成感」、 それら多くの 喜怒哀楽 の瞬間。
自分でも気がつかない内に、お金にも何物にも代えられない自分自身の 金字塔 となっている。
当時 (勘違いも含まれるが)、
必然と 「一般の学生」 との間に出来上がる 目線・視点が異なってゆく自分自身に気がつく。
「人格の陶冶」 を継続し続ける事が出来ない、「他者との違い」 を優越する 「弱さ」。
強烈な目的 を持つ その 「集団」 は、
その 「集団の言動」 は、
「善」 にも 「悪」 にも相乗効果をもたらすことを体感。
過去の日大應援團:
先輩方の 事故 ・トラブル ・問題 ・強い、弱い思想等を 心底恨む事無く、しかし それらを忘れず。
(思想教育が少なかった為か? 学園闘争時代には右と左に別れた先輩方も在る、と聞く)
そして 当時の自分達の 「素晴らしい言動」、
そして 当時の自分達が勘違いして招いた 「恥ずべき言動」、
双方ともに忘れてしまわないように心がけ無ければならない。 その意味での本HPかもしれない。
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応援団 入団当初:
陸上部や空手道場等を経験し 覚悟していた自分の その想像を非常に大きく超えた 「厳しい練習」、
とにかく徹底した 「礼儀作法」、 「連絡の不備」 は絶対に許されない(携帯電話が無い時代)、
「連帯責任」 という逃げられない地獄の掟、 新入生勧誘の 「無言のノルマ」、
OB先輩方々から次々と依頼される危険を伴う 誰もやりたがらない種類も含む 「アルバイトの対応」、
諸先輩から次々と言い渡される 「様々なご指示」 など 、、、、、 土日も構わずそれらが
「てんこ盛り」 の日々である。
・メモをとる ・予定表をつくる ・簡易な日記を書く。 これらの習慣等はこの時 誰にも教わらず
に付く。 (手取り足取り教えられた事は無い・・・現在も有効)
同期(1年生)の退団:
同期の新入団員候補者及び新入団員において、それらを苦にして退団又は退学した者が十数名いた。
私も同論 であった為、 退団か? 退学か? チクるか? 継続か? の決断の時があった。
私が日大応援団の入団を決めた時
「どんなに厳しい事があっても4年間やり抜く」 と決めた。 、、、が迷った。
当時の結論は
「3年間 修行僧に徹する。 死にもの狂いで先輩やOB先輩の要望や指示や期待に応え、
4年生 (OBと同等に会話ができる) となり、アルバイト禁止令等を出して体制を変える」
と 1~3年に向けて 非常に力み、退団をせずに練習も応援も強制アルバイト等もどうにか継続出来た。
強制アルバイト禁止令:
を4年生(幹部) になり 即 実現。 強制アルバイトを毎度依頼される 特定のOB先輩方に
「授業と応援、練習が最優先であり、強制的なアルバイト禁止令を出します」
と説明。 特定のOB先輩方の数名は大変に驚かれ、大きな声での反対もあった、が実行した。
卒業した後:
に確認できた事ではあるが 1つ学年下の後輩達へ、特定のOB先輩の一部から
強制アルバイトが継続されていた事 を知る。
しかし 不思議な事:
に 特定のOB先輩等から指示された数十種類の強制アルバイト、
「桃のたたき売り」 (腐る半歩手前の桃) や 「政治家のボディーガード」 等
トラブルが多発した事、理不尽な経験こそ、卒業後には 特に愉快に思い出すのである。
そして 滅私奉公 大学応援団活動により、自分自身の
「利他」 の心 が 非常に強化されていた事を知る。
右翼・左翼
私は入団以前から 「中庸の精神」 (山田顕義先生程では全くありませんが) を重視。
大学時代に話し合う機会があった 「右翼学生」 「左翼学生」 等からは、長く付き合う程に
「純粋さ」 を 双方から強く感じた。
日大には様々なセクト、左翼があり 右翼があり 運良く 直接的・間接的に関わりが持てた。
応援団と同じような学ラン ・ 恰好をした右翼等も有り、
日本大學 菊心會 ・ 日本大學 櫻魂會 ・ 日本大學 本部親衛隊関東連合 櫻花塾 等々
他大学・大人を含めて 「中途半端では無い人達」 とも多く関わる事が出来た。
大学生として 「十人十色」、さまざまな時の過ごし方がある事は充分理解できる。
自分の勉強・資格を取る為、健康の為、友人や恋人をつくる為等 の貴重な大学生活。
それは大切な人格形成・成長の時間である。
しかし、右・左の 「双方」 は、私利私欲の時間だけではなく、大学の体制、 国 ・ 世界 の
体制を憂いて言動している人 がとても多い。
「社会をより良くしよう」 とする 「積極的な意気込み」 をとても強く感じた。
右・左にしろ、私利私欲だけでは無い 熱き人間の 「証明」 でもあろう。
そして一般の学生が、私利私欲から少しだけ離れた 「双方」 を
「右翼学生 ・ 左翼学生」 と名付けるのは勝手ではあるが、
「異端児扱い」 して 「交わる事すら放棄」 する学生が非常に多く有った。
それらの学生達は 「誰に」 「どのように」 教育・影響された視点であるのか?
その事 事態に 「疑問」 を少なからず感じている。
艱難辛苦の後:
苦しかった応援活動 ・恐怖の練習と合宿 ・六本木マンションより 極貧だった神楽坂 四畳半の団室 ・
弱い者いじめより 強者との闘いの負け勝負 ・様々なアルバイ ト ・先輩方への新しい彼女の探索?
などなど 、、、、、 戸惑い 辛く苦しく そして理不尽な体験、今だからこそか
それらが大変懐かしく笑える。
「押忍 ・ はい ・ オリャ」 の肯定言葉、諸先輩に従う 3年間。
「僕ってバカ?」 など、時々言われる S先輩の言葉。 蹴られる事を覚悟して
「押忍 ・ はい」 と答える日々。 (もちろん それが原因で本気で蹴られた事は無い、が)
「全てを受入れよう」 と苦悩する日々は 第三者の誰からも称賛される 「金メダル」 などでは無く、
自分の心の中にひとつひとつある行動が、勲章 ・ 恥 ・ 意地 などの 「体験」 として存在している。
ひとつの物語りにある 「完」 では無い。
「目の前」 に起きていること:
全てを前向きに捉える 「押忍」 の精神。
先輩やOB先輩の指示・命令は 時折 めちゃくちゃである、 しかし犯罪的な事はほぼ無い。
先輩も同じ人間であるが 「天使と悪魔」 が共存している。 (私も同様である、と気がつく)
自分の考え ・ 信念 と大きく違う先輩からの 「指示」 の場合には
「押忍 ・ はい ・ オリャ」 との発声を 「控えめ」 な事もあった。(20回に1度くらい?)
その場合、先輩は 「指示」 の方向を変えて戴いてくれていた。
それらをも、応援や練習と同じ 「滅私奉公」 の精神で捉え、自己責任・自分の納得するところに
繋げてゆく、という経験。
3年間はその連続であった。
卒業式の午後:
夕陽をみながら 日大経済学部の8階にて 応援団 同期からの あまりに漠然とした質問。
「4年間 どうだったよ」
「う ~~~ ん とにかく 喜・怒・哀・楽 が多かった、 一般学生の百倍以上か」
と 会話した事を思い出す。
勇気:
を発揮していなかったら、
侍・荒武者のような集団に入団する決断が付かなかったら、
応援団に入団して4年間を全うしていなかったら、
と考えた時、今でも鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。
【 中学生3年から開始: 自転車で日本中(ゆくゆくは世界)を回る事、 は中途とはなったが 】
【 日大豊山高校2年生時: 一泊のキャンプ場にて (所属する委員会 ひとつ先輩との会話)
「日大に入ったら 応援団と拳法部、合気道部がメチャクチャ厳しいらしいぞ」
「それなら 応援団をやってみようかな」
「バーカ、できやしないよ!」
「そんな事ないですよ!」 と話す 】
しかし、日大入学後に実際の応援団員の挨拶などを見て、タジロぎ、ビビリつつ 、、
結果、ご縁が重なり入団したのでした。 とても大きな勇気が必要でした。
もし、この4年間を経験をしていなければ
社会に出て体験する多くの 「理不尽・不条理」 に対して、シラケたり、諦めたり、目的を見失う、
そんな気持ちが今の自分より多い捉え方をしていた。
そして 国や世界に 「滅私奉公を」 という 一見 右翼のような視点のこの言動も
今のようには出来てはいない。
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滅私奉公 ・ 利他 の「時」:
こそ 自分自信が感じる 「本物の幸せ」 が在った。
他大学と相対する日大選手も含め 人間が通常出来得ない、あまりに強烈な体験
(民主主義でも 資本主義でも 社会主義でも 共産主義でも 、、、無い)
を 偶然か必然か 4年間 経験することが出来た。
自分の過去を振り返ると:
自分・自分達が、経験してきたスポーツ・武道・勉強の 「昇級や表彰」、本や映画等、
人間付き合い等、 自分の 「心・技・体」 の成長に とても大きく繋がっている。
しかし 「滅私奉公の応援団」 の4年間の経験こそが、なぜか あきらかに
自分の 「心の基盤」 となっているのである。
それらを体験した自分達:
が それらを現役学生方 (自分の子供たち世代) に知ってもらいたい ??
日々 自分と戦いながら ・ 修行僧のような ・ 先輩の前では肯定言葉しか使わない ・
年がら年中 大声での挨拶 ・ 他人のために 「滅私奉公」 の応援活動を実行していた ・
そんな学生が かつての日本大学にも居たんだよ、 という事実。
【現在の学生方の情報調達量は当時の私達とは比較にならないほど膨大である、が】
【イミフ リカイフ ・・・ などと思われる事を理解しながら、も】
現役の日大学生方は 大学の応援活動に特化した経験が当然に無いわけであり、なおの事
【何の役にも立たない情報じゃね、と】
言われる事も理解してる。
本HPのこれら記録の一部を ご縁があって読んでいる現役学生方、
その方々がどのように感じるか、をも想定せずに過去を記載。
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● 命がけ (応援団道) :
卒業前旅行: 日大経済学部主催のヨーロッパ(ドイツ)旅行中にて。 (4年生 2~3月)
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【未来】 これから
●「日大節 (応援団節) を公(おおやけ):
として良いですよね」
というような主旨で、本HPへお問い合わせがあり、私は 「良い」 と思いつつも、答えられずにいる。
「応援団節」 の公な使用に賛成をしない人:
は、「日大応援団」 と 「近大応援団」 の (ほんの一部分の)
「団長を始めとする現役学生」 と 「OB先輩方」 であろう。
日本中の応援団が少数化:
している中も、「応援団節」 等として各大学応援団が 「公」 な使用を 若干なりとも躊躇している。
近大と日大に気を使っている現状が、全く無い、訳けでは無い。
それほどに 当時の近大・日大、双方の応援団が活況を呈していた証でもあろう。
しかし 現在、もう既に SNS等で 「応援団節」 等として 「公開」 しているところもあります。
(調べた結果)
私はそれを見て 「応援団は頼もしい」、とさえ思える。
明治大学応援団 ・ 早稲田大学応援団:
の 団長 や OB先輩方は、
明治大学応援団で創った「三三七拍子」、
早稲田大学応援団が最初に行ったと言われる 「フレー フレー の発声」、
などを 「公」 としている。
「さすが 明治大学応援団」
「さすが 早稲田大学応援団」
とSNS等を見て 「事実」 を知った人は 改めて感じるであろう。
しかし 1980年当初:
日大応援団員は、近大応援団との確約で 「応援団節」 (近大節 ・ 日大節) は
「二大学の応援団のもの」 との想いが強い団体でした。
1981年11月15日9:00~ 東日本の約30校の応援団 ・ 400人以上が集まり、千代田区九段会館にて
日本大学応援団が主催校となり 「第30回 全日本学生応援団連盟記念祭」 が行われた。
ところが
日本大学では無い 新規の大学応援団が知らずに 「応援団節まがい」 を舞台上で披露し始めました。
私達 (1年生であった) は、「他大学応援団長」 が踊りだした早々に 舞台を止めさせようと自分の席
から 立ち上がりました。
しかし、日大応援団 2年生先輩に止められ、その2年生先輩が 「応援団節まがい」 を なぜか? 無事
に終了、後 「応援団節まがい」 をした大学応援団の団長・ 幹部を舞台の裏方に呼び、正坐をさせて
足蹴り ? をしていたようです。
「応援団節まがい」 を行う他大学の応援団長の 「舞台を無事に終了させた事」 自体に憤り
を (1年生なりに) 感じておりました。
1980年頃、それほど 近大応援団 と 日大応援団による 「応援団節」 の独占を締めており、
恥かしながら その一部分が私達だったのです。 しかし
「全国の大学応援団が盛況では無い」:
そう聞けば 聞くほどに 「応援団節は公とすべき」、との思いが 私達は強くなりました。
「公」 とするか どうかは
「日本大学応援団」 と 「近畿大学応援団」、双方の 「団長の判断」 です。
しかし、日大の場合
「全日本学生応援団連盟に所属しながら 日本大学応援団の復活を目指す」
という現役学生は残念ながら無いまま、となっています。
現役の日大応援団は不在の為、「日大應援團 OB の多数決で決めましょう」
との方向に成りつつあるように2021年5月から動いておりますが、多難が続いております。
万が一、日大應援團のOBで 「応援団節は公」 と決まった場合、
当然ですが、直ぐに 「公」 とは出来ません。
「応援団節」 の 「公」 に不可欠なのが、近畿大学応援団の団長の采配となります。
日本中の応援団のために:
「応援団節」 が、誰の文句も無く 「公」 と出来るには
現役の 近畿大学応援団の団長 次第なのです。
(近大応援団の団長がOKとなれば、日大應援團 OBは納得するでしょう)
近畿大学応援団の団長殿の采配:
で 「応援団節が公 となる」 事を 心より祈っております。
「すでに 公 である」:
との情報が 近大応援団からあるようであれば、素晴らしい事です。
それを明記したSNS等の場所を教えてください。
全国中の学生諸氏だけではなく、多くの方が 「近畿大学 応援団」 を称賛するでしょう。
●現役 日大の学生方:
が今後 どのような学生生活を送ろうとも
同輩 ・先輩 ・後輩 ・友人 ・仲間 ・恋人 ・先生 ・親族 等へ、
「皆と知り合え そして学びあえ、鍛えあえて良かった」 と感謝しつつ、
「社会への貢献へ」 と感じて卒業式をむかえ、
周囲の5月病を応援して歩み、
ご縁があって所属する組織において、TOPに相談 (時に直訴) しながらも、
率先して 組織・日本・世界を 「改善」 してゆける人材へ、と可能な限りなってほしい。
●同志:
「友人」(親友も悪友も含め) の存在は自己の成長に とても大切である。
しかし 社会に進出して 「おもしろい」 と感じるものは
「志」 を同じくする 「同志」 との巡り合わせである。
友人も大切であるが 何よりも 「同志」 である。
同志にめぐり合えない人も多い と思えるが 結局は自分次第である。
そのためには 自分が社会貢献してゆける 「志」 を公言してほしい。
「志」 が見つからない人 (私も20代の後半まで そうであった)
は、日々アンテナを高く張り、「こうなればいいのになぁ~」 を
多く発言・発信してゆけば 「同志」 は必然と出会える。
「応援団が機能するとき」
自らが勇気を持って機運をつかみ、色々と試みる、その繰り返し、
その中において出来上がる関係は 「友人」 などではなく 「同志」 である。
同期だけでは無く、先輩・後輩の多くもそうであろう。
卒業後には 元 同志となってゆく。
●やらなきゃ 絶対に解らない:
大学応援団の 面白さ ・爽快さ ・素晴らしさ ・醜さ。
「真の充実」 に気が付いたのは 私の場合 大学 2~3年生の頃であった。
「石の上にも二年」 を体感。
応援団に前向きに精進した経験者でなければ その素晴らしさを理解する事も語る事もできない。
(他の大学応援団OBの多くとも共有)
社会人になって:
からも、スポーツ ・武道 ・勉強 ・仕事 ・ 本や映画等 ・人間付き合い等(ケータイやパソコン等の
情報のやり取り等も含め) 自らを鍛え、真のヒーローと成るチャンスは無限にある。
しかし、同じ大学生への 「利他」 で行動する大学応援団を経験する機会は、大学生時代しかない。
●利害関係の少ない:
大学生時代だからこそ出来得る 「滅私奉公」 の究極のボランティア、
社会人直前の 「修行の道」 となろう。 (命がけの遊び場かもしれない)
だからこそ大学応援団員の就職は、社会から引く手あまたの状態であった事が頷ける。
●二度と来ない大学生時代:
ご縁あって入った母校において、
知り合う仲間と共に、懸命に日々励む 同じ大学生の為に、勝っても負けても校歌・応援歌を、
大きな声で歌いながらの大学生の生活を、
となる事を願う。
●現役の学生方:
にて、一人でも応援団の復活活動を実らせたい学生がいれば
私達がサポートを拒絶することは ほとんど無い。
・主導権は 1年~4年の現役学生が持つ (日大応援団のOBよりも)
・全日本学生応援団連盟に所属 (日大が復活活動を一人でも起こせば 他大学応援団の反応は大)
この2つを公言される学生があれば
私たちOBの一部が それを守れるよう、徹するように努めましょう。
●強大な組織:
には昨今に及ばず、大きいがゆえに 「肯定論」 と 「否定論」 (様々な情報 ・ 個々の憶測も含めた)
が出てくることは 日常茶飯事である。
それだけ
強大となった母校 日大。 それに及ぶ 「称賛 や 汚名」 の陰 (言わずもがなの本音の部分)
には、TOPに近い程、私利私欲を通り越した 「母校・学生を思う故」 の 「滅私奉公」 の想いがある、
と私達は感じている。
「やり方」 や 「考え方」 の行き過ぎている人物は 強大な組織であるほどに居る。
当然、社会に出て体験する 「理不尽 ・ 不条理」 を 現役学生は社会に出る事前に理解して
歩んだほうが より良い。
●じゃあ自分は:
(言動をする・しない を含め)
「自分はそれについて、何のために・誰に・何を・どうするのか」 をしっかり考える事が大切となる。
社会に出て、「SDGs」 等の多くを目標とし、「5W5H」 等の決定が必要となってゆく、事となろう。
5W: Who, What, Why, When, Where
5H: How, How many, How much, How long, How (into the future)
●危機管理学部:
という 社会のニーズに応えた、世にも珍しい学部において、
日大で問題を生じた時、
火急 管理者と当人等による対策、「原因」 の多くを正直に記載して 「再発の防止」 の為の
品質管理 (世界標準 ISO9001) の設定が必要、
「なぜ」 を 「縦」 に5回記載し PDCA を回す習慣が必要、である。
時としてSNS等にてその経緯を社会にも周知させてゆく。 そして
「危機管理学部」 を創設した 「高い志」 が広く伝わる仕組みの充実。
それを理解して集まった入学生は
全国の政財界を含め あらゆる組織から必要とされる、欲される 「有識者」 となってゆく。
将来
・大学受験をめざす高校生に、
・勤続を志す組織 ・国 ・世界 に 「社会貢献」 を言動する人材に、
最も希望する学部 (危機管理学部) へと成れる可能性がある。
●目的:
は 日本大学 学祖 山田顕義先生のみではなく、福澤諭吉先生・大隈重信先生などなど多くの
日本の大学の創始者達が(現存していれば) 納得されるであろう事は、非常に大きく分けると
3点が特に大切と思える。
★世界がより平和となる方法 世界中各国の有識者 (各AI も含め) で談話・・・ その公開と実行
★自然環境の保護 世界中各国の有識者 (各AI も含め) で談話・・・ その公開と実行
★各国益の改善・維持 世界中各国の有識者 (各AI も含め) で談話・・・ その公開と実行
仲間外れ国を一国も作ら無い、そして 世界中各国の有識者 (各AI も含め)で談話
して より適性な 貿易価格 を含めた改善を進める。
「自然環境の保護」 を行う国は、そうでない国々から 「堂々と資金を得る」 仕組み作りが必要 等
の知識 ・ 知恵の出し合い・話合い、 実行が必要等 、、。
世界中の有識者との 「談話」 (危機管理を含めた) の "場" の公認が必要である。
国際連合が決定権・実行指示権を新たに持ち (膨大な資金等を持つルールを新たにつくり)
国連の一人一人 が更新してでも 本来の意義 を見出させ、WEBを利用し、世界中に運動し、いち早く、
「地球決定 ・ 世界決定ができる権利」 を実らせるしか無い、であろう。
以上のような意見も、
国連(資金的 力を新たにつけた)で、吟味、場合によっては公開・掲載し、
世界中で談話し、決定し、実行に移してゆくように成れば、と感じます。
もし 神様:
があれば 「超 我儘な人間」 を 「再教育」 する方向?
どうしても 「再教育」 出来なければどのように 「削除」 (どう社会生活と距離をおくか?)
江戸時代の一部のように世界中が戻れる?
電気自動車が日本では中々買えず、半ガソリン車に乗る等 の自分もその一部分ですが。
(上の5行は、あまりに私論となりますので これ以上は止めます)
理想の実現:
「思想」 の世界統一は、 各教祖(天才中の天才)でも出来ない程に本当に難しいであろうが
「理想」 の世界統一は、 世界各国の有識者による 「談話」 を諦めずに繰返せば可能に出来る。
やがて来る恐れがとても高い 第三次世界大戦。
ここ1000年だけでも人類の 戦いの歴史(大きく記録されているだけでも) を見れば、
自分も例外では無いが、 人間の愚かさの理解が深まる。
情報戦 ・ 無人戦争(ドローン等)・有人戦争 等で始まり ゆくゆくは 核戦争等へ、と突入すれば、
人類だけでなく 世界の多く生物の終焉へと繋がる可能性がゼロでは無い。
「戦争・武力 でカタをつけようじゃないか」
という国々(ほんの一部分の人々)を、世界各国の有識者が 諦めずに
【 各国の大量殺戮兵器の保有・非保有を問わず 】
「談話」 し、知識 ・ 知恵を出し合い 管理 してゆかなければならない 「時」 である。
,
「自分達の幸せ」 の 「達」 の広さ、「幅」 を自分も含めて ひとりひとりが大きく広げるべきであり、
各人の 「幅」 の 「狭さ」 が、歴史上 止む事の無い 「諍い」 「戦争」 という化け物の、
各人の 心の中の 「本当の正体」 であろう。
そして ゆくゆく、人間が作成した A I (人工知能) が自主的に言動する様に 更に更に発展した場合、
最初に地球上で駆逐される生き物は 「超 我儘な人間」 と成るであろう。
それは 「仕様が無い事」 とも思え、覚悟して 「超 我儘に陥ら無い様にしなければ」 との事となろう。
「危機管理」 を学ぶ珍しい学部:
と今は思えるが、地球の過去と今をより正確に把握し、そして未来を創造し、
世界中と談話 (バイリンガルをも育て) し、プロジェクトマネージャー等を育て、実践学を研究。
様々な A I をも談話 (話し合い) に参加させ、その言動のひとつひとつを 「公開」 しつつ、
世界中の有識者等でそれらを 「実行」 してゆく。
(万一ダメそうなところが出そうになれば 談話して見直しながら)
そういう学び舎となってゆく可能性を 充分に秘めている。
そして、学生諸氏は
社会に出て 厭でも経験する、 世間の、 世界中の、 「理不尽 や 不条理」 に 大きく戸惑う事無く、
歪む事 少なく、そして自分自身を含め 弱い人間を理解し、「未来の準備」 の為の大学生活に。
それら自分の 言動・記録 の一つ一つが (自分の生死をも超えて)
将来 起こり得る様々な事を 自他ともに (多かれ少なかれ) 結論付けてくれる。
●日本人の 「学びの精神」 :
の一例にもなっているが、幕末 開国を要求する 「黒船」 へと折衝し、「新しい文明」 を学ぼうとした
向学心 (知識欲 ・ 好奇心)、 命をかけて 「行動」 を起こした 吉田松陰先生。
それを理解できた米国 ペリー総督。
ペリーの航海記:
「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい
知識欲は興味深い。 この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。
日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。
日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、
何と希望に満ちた期待が開けていることか!」 (WEB情報)
吉田松陰 門下生である 山田顕義先生 (6分28秒)
山田顕義 門下生である 日本大学生
●日に日に新たに:(校歌)
「学ぶ」 ことを命がけで行う姿勢、それに恥じないよう 学問を進め
「心 ・ 技 ・ 体」 を鍛えつつ 未来を創造し 世に出てそれを成してゆく。
「さすが 国の名にふさわしい 日本一 世界一の大学」 と言われるような 学び舎へ。
桜門会OBである私達も含め 「日に日に新たに」 百万人以上が歩み、
令和元年に創立130年(5分58秒) を経過、成長を続けております。
私達OBは、 現役の各学生方 ・ 山田顕義門下生の
「母校 日大の目的および使命」 の全う と 「自ら創造する明るい未来」 の実現を
こころから応援する。
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【本HPについて】
※本HPは昭和30年代先輩のご了解と応援を戴いての作成・公開となります
●本HPへの参加:
昭和55年(1980年) 以降の元団員で掲載されたい画像等があればご連絡ください。
作成途中ですが、恐縮ながら一部の先輩と後輩等で公開の実現を図るように検討致します。
●参照する画像は 出来得る限り顔認証できないレベルの画像 を基本としています。
●個人情報保護のために 個人名の公開を避けるように極力作成致します。
h@kmsym.com HP担当 第61代 Y.M 他 以上
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