2017年5月28日 日本上陸 60周年記念 寄稿集

『崔書勉先生と私』
      ※画像: 表・裏表紙

 刊行の辞:橋本明   
 特別寄稿(一):橋本明 
阿部孝哉 横  :小川郷太郎 横  :落合一秀 横  :小野五郎 横  
金玉彩 横  :草原克豪 横  :小針進 横  :権鎔大 横  :櫻井勝 横
嶋本操 横  :鈴木琢磨 横  :西崎浩之 横  :西村多聞 横  :橋本明 横
森松義喬 横  :山下靖典 横  :尹基 横  :渡井幹子 横
 特別寄稿(二):橋本明




刊行の辞            
 日韓談話室 代表世話人
 橋本 明

皆様 五月二十七日は崔書勉博士が日本に居着いてちょうど六〇年を経る大事な一日となります。

 崔文学博士は常にソクラテスを胸に秘めて滞日されました。外国に身を置いて決して韓国の悪口を言わない人物です。従って朴前大統領についても無言の業を貫きました。

 自国について何も知らないことを恥とされながら、もっぱら国会図書館、外交史料館に通い、懸命に学んだ。 亜細亜大学で職を見つけ、さらに生きた教材として東京神田街の古書店を実地にめぐり、安重根自らの獄中日記等を発見し、彼を日本人に理解させることが可能であれば韓国学の底辺に据えると誓った。

『韓国研究の魁 崔書勉』 という崔文学博士の偉大な人物について私橋本明が一冊の本にまとめることが叶うとはおこがましい振る舞いですが、貴重な六〇年に亘る博士の半生は両国のわだかまりを充分補って足るものと確信する次第です。





特別寄稿(一)
 『小さな墓標から』
 日韓談話室 代表世話人
 橋本 明

 犬養毅、頭山満が丁寧に埋葬した李朝末期の金玉均墓域南斜面に小さな墓標があり、朴裕宏と刻まれている。はて誰かな、私の好奇心が刺激を受けた。

 ある年、定宿さぬき倶楽部から麻布十番の薔薇屋にくつろいだ私ども二人。会話は青山墓地について始まった。
「よくあの墓地を訪ねているよ」
「それならばご存知でしょう、朴何とやらと刻まれた小さな石柱があるのを」
「お、もちろん知っている。明治時代だがね、朝鮮から一人の青年が日本の陸軍士官学校に留学したが、卒業に至る前に自殺した」
「陸士で明治時代に朝鮮から留学生を迎えたことを大伯父石光真清が手記に書いています。定員五十人だったのに推薦入学した朝鮮人を加えて五十一人になったと」
「そうか、詳しく話してくれないか。手掛かりになる」

 真清が残した資料からいとこがまとめた四冊の文庫本には彼が幼年学校を無事終えて陸士に転じて半年、朝鮮人学生を励ます目的もあったのか、朝鮮服をまとった高官が参観に来たと書いてある。
「青い目をしたドイツ人モルレンドルフ税務長官。閔妃が雇った外国人。全校生徒の前で訓示を垂れたようですよ」
「明治二十年(一八八九)三月だったそうです。この参観日が過ぎてから朴の様子がおかしくなり始めた。」
「たかがドイツ人に過ぎない男に激励される自分とは、いったい何なんだ。相当な屈辱を味わったと真清は想像しています。四月に入り、満開の桜が散り始めた頃自室寝台の上で小銃を咽喉部に当て足指を操作して。遺書はあったそうですが、教官が持ち去ってしまい、同期生には発表されなかったそうです。」

 暫く無言で考えこんでいた崔さんは口を開いた。
「列強の谷間に呻吟した朝鮮が、朴青年自殺事件の背景にあることを考えなくては」
「ドイツ人云々は口実でしょう。それよりも母国の窮境を憂い、死を選んだのだと思う。簡単に言えば、清国派の事大党と親日的民族派の独立党がクーデターを繰り返した。挙句閔妃が差し向けた人間に殺された。朴が最も尊敬していた金玉均の死を悼み亡くなったと想う」

 だからこそ小さな墓標が金玉均の墓域に立てられたのだろう。好奇心が招いた一連の会話は当然のように橋 本家説明に向かった。

「石光はそれからどうなったの」
「金玉均が殺された年に歩兵中尉に任官しています。八月、日本は日本朝鮮暫定合同条款を結んで、日清戦争の先にある朝鮮併合に突き進んだ。三月二十日輸送船相模丸に乗船、宇品港を出た直後兄真澄の急逝を知らされている。所属は近衛。第五師団が鴨緑江を渡河して満州へ。第三師団は海城から営口へ、第一、第六師団が旅順に上陸した。威海衞を落としたのは第二師団です」

 兄真澄というのが財界で鳴らした馬越恭平に重用され大日本麦酒の専務だったと説明した。岡山の高梨川沿いに秦村があり、農業をしていた橋本卯太郎が洪水で被害にあったのを契機に一人上京、新聞配達をして勉強。地域にあった馬越家の主に見込まれ、やがてビール会社にやとわれる。専務の目に留まり、石光家末娘真都と結婚した。

「真清のクラスをみた先任学生が橘周太、日露戦争で英雄となったタチバナ中佐です。同期や弟が大将、元帥に登用されたのを横目に、これからの日本が安全を得るにはロシアの動向だと判断します。願い出て諜報活動に身を呈します。朴とは誰ですか」

「欧米の近代化に習って新しい技術や制度を導入して朝鮮の内政改革をはかろうとした開化思想。朴珪寿の門人だった金玉均、朴泳孝。開化派と言われた朴の息子だよ。内政改革の徹底を目指す急進開化派の一人で踏ん張った人だ。金玉均が身元保証人となって日本陸軍幼年学校に入ったのだよ」

 歴史学者アーノルド・トインビーが歴史の研究という著書で十九世紀のアジアには二つの選択肢しかない。
西欧を受け入れ西欧に全面降伏して生き延びるか、西欧に抵抗して滅びるかのどちらかだと言ったが日本を訪問していない。彼がこうした過ちを犯したのは蔑視だったのでしょうと話を進めたものだ。
「それでアキラの親は? 六男二女を生んだ祖母たちは男に宇宙乾坤龍虎の一字を与えていったとか」
「はい、三男乾三です。検察官になりました」
「馬越という経営者の名は記憶にある。恩に報いることを知った人だねえ」
「馬越は、人は勉強によって術を得ることはできる。が、誠意を得ることは出来ない。生まれながらに備わった誠意は数万貫の鉱石の中から掘り当てた宝石のように尊い。こう言っていたそうです」

 崔さんは清酒を好みビールを飲まない。ウイスキーなら目がない。ついでに日本のビールを述べると、北海道の札幌麦酒会社が第一号。二番手に明治維新の功労者桂太郎の弟・二郎が資本金十五万円で恵比寿麦酒会社を創建した。明治二十一年行き詰まり、正直一徹働いた真澄の努力が後継者馬越の経営方針とピッタリ一致し、二十五年下期には配当七分二厘を実現した。馬越は真澄死後毎年正月に真清の母・守 家を訪ね、実に四十数年礼譲を続けてきた。

 ついに橋本家の解剖にまで崔さんは話を掘り出してしまう。のちに首相となる龍太郎母春子。父親が大野といい、朝鮮総督府政務総監を務めた元警視総監緑一郎は勲一等旭日大綬章、貴族院議員に輝いた。
「そう、大野はね、朝鮮在任中、伊藤博文をハルピン駅頭で殺した安重根に会いたくて旅順監獄まで行ったが、管轄が違う、と一蹴され面会が出来なかった」
 昭和十一年八月のことだった。

 橋本家には別人の大野豊四がいる。正三位勲二等功三級陸軍中将。二男戦艦大和(やまと)の電探開発に携わった海軍大佐宙二嫁になったのが長女香だ。
「アキラは天皇明仁の同級生になった。相当苦労も重ねただろうね」 
 このような会話をして深夜二人は別れた。これも崔さんを語る一面かと思い、六十年記念号に納めて頂く。





『崔書勉先生と私』
 元公益財団法人 日韓文化交流基金業務執行理事 
 阿部 孝哉

 この度の六〇周年記念文集発刊に際して、「崔書勉滞日三〇周年記念文集」と「日本上陸五十五周年記念寄稿集」に改めて目を通して、崔先生と諸先輩との交流の足跡を辿ってみると、一期一会の姿勢で様々な出会いに真摯に臨んでいる崔先生の姿が見えてきます。

 私の崔先生とのお付き合いの中で特に記憶に残る経験は、作家の故韓雲史先生の墓所を先生の案内で訪問したことがあります。
二〇〇九年一〇月、偶々韓国を訪問した私のために旧知の韓雲史先生の墓参をアレンジしてくださり、韓先生の御子息とともに車で片道四時間ほどかけて韓国内陸部の江原道の公園墓地を訪れました。
秋の野辺に翠霞がたなびく穏やかな日和の中で、丘陵の最上段にある墓所で崔先生とともに一片の雲を仰ぎ見ながら故人を偲んだ情景が懐かしく思い起こされます。

 崔先生は鬼籍に入られた日本の知人の方々の墓参を数多くされていますが、死後も故人との縁を大切にされているその姿勢は敬虔なクリスチャンであることだけがその理由ではないと思われます。
崔書勉先生の日韓関係における数々の足跡は余人の言に譲るとして、私が崔先生との交際を通じて感じた中で特筆すべきことは、なんといっても他人に接する時の一期一会の姿勢です。

茶会の心得といわれている一期一会の精神は究極の人生観といってもいいのではないかと思いますが、利害得失に流される世俗社会においては凡人には修養なくしてその実行は至難の業です。
正に人生の数々の試練に耐え、修練を積んでこられた崔先生ならではの境地ではないかと思われます。

 崔先生の知遇を得た人なら誰しも、先生の気宇壮大で真摯な人となりに感銘を受け、時間と空間を共有できたことに至福の思いを抱くものと思います。

 近年、崔先生とお会いする機会は殆んどありませんが、過去にお会いした時の情景を折に触れて思い浮かべます。
また、日韓談話室の世話人として永年にわたり献身された故寺田佳子さんが亡くなられて早や一年が経ちますが、日韓談話室というと寺田さんのお姿が偲ばれます。六〇周年というお祝いに寺田さんが居られないのは大変残念です。
 
崔書勉先生の日本上陸六〇周年という年輪を心よりお祝い申し上げ、先生の更なるご健勝を祈念致します。
多謝頓首



 


『崔書勉先生と私』
 (怪物)
 小川 郷太郎

大いなる畏敬の念をもって申し上げるが、私にとって崔先生はやはり
「怪物」である。
しかし、この怪物は慈愛に満ち、信じられないほどの知性や洞察力を備え、しかも物凄い度胸を備えている。広い人脈を手のうちにしているのは、先生の豊かな人間性から来る。

 先生に初めてお会いしたのはいつかは正確に覚えていないが、たぶん私がソウルの日本大使館勤務を終えて帰国した一九九〇年代の中ごろかと思う。
ある会合でかねてご高名を耳にしていた先生にお目にかかったときに、肚の座って何とも言えない凄味のあるオーラを感じたが、お話を聞いていると私の知らないことや気付いていないことがどんどん出てくる。
それらはいずれも私の胸にずんと響くような日韓関係の重要な事項であった。
韓国勤務経験者として韓国が好きで日韓関係改善を真に願っている一人として自分の無知を思い知らされたが、先生のお話に引き込まれていった。
何度かお目にかかり親しくさせていただくに従って、先生の尋常ならぬ偉大さを一層強く感じていった。
数奇なご経歴を生き抜いて、日韓双方の政界、官界、知識人たちと広くて深い人間関係を築かれていることにも驚嘆した。

 この大先生は、私のような若僧にも分け隔てなく、また女性にも優しく、ユーモアに溢れて人を包み込んで下さる。
先生は人間関係をとても大事にされ、恩になった人には死後も遠近を問わず熱心にお墓参りを重ねる。
そして、お酒の強さと言ったらまさに怪物的である。
日本に来られるときは毎日のように国会図書館や外交史料館に入り浸って研究を重ねておられることも知り、先生の言動の凄さが理解できる思いがした。

 一九九七年だったか、私が所属するある研究会の合宿で幹事役を仰せつかったとき、日韓関係の中の重要な点について日本ではあまり理解されていないと考えていた私は、日韓関係をテーマに取り上げることにして、まず崔先生に講師をお願いした。
先生は快くお引き受け下さり、各省庁の役人を中心とする参加者にとても新鮮で胸に響く話をしていただいた。
夕食後の懇親会では自ずと先生を囲んで日韓問題に話が弾んだ。
ここでも皆がますます韓国に関心を強くし、自ずと「皆で韓国に行ってみよう」ということになった。
この旅行の幹事も私が指名を受けたので、ソウルでの日程作成には崔先生に全面的にお世話になった。
韓国政府の高官や政治家、通常では会えない人との面会などが準備され、こうした方々との酒宴を含め、我々の韓国旅行は実に得難い経験となった。

 私は今でもときどき韓国に行くが、ソウルで先生にお目にかかるのが楽しみである。
先生の行きつけの「白松」でよく御馳走にあずかり貴重なお話を伺う。日本に来られて、お元気なお姿に接するのは私の大きな喜びである。

 先日刊行された橋本明さんの名著『韓国研究の魁 崔書勉』を拝読して、この凄味があって人に優しい碩学に一層畏敬の念が強まった。
怪物のようにいつまでも長生きされることを切に願わずにはいられない。





『崔書勉先生と私』
 (崔書勉交歴二〇年)   
 落合 一秀

 去る五月二十七日に「崔書勉先生日本上陸六〇周年祝賀会」が盛大に行われた。
私は先生のお近づきを得てから二〇年になるが、長いようでもあるが、 “白馬が走り過ぎるのを、隙間から見るように、ほんの一瞬のこと” のようにも思える。

 二〇年前、先生七〇歳、如何に疲れを知らず、頑健で、斗酒なお辞さなかったか。該博な知識・諧謔、温かな包容力で、いつも多くを教えられた。
その源泉のひとつは、先生の歴史に対する強い好奇心と情熱、頑固とも言える史実への密着と執着に寄るものであろうか。

 二〇年前の先生の講演録を久し振りに再読したが、新鮮で、新たな感銘を得た。その一部を以下に抜粋してみる。

 “「歴史」という言葉自身を見ると、「歴」はクロノロジー(chronology)ですから説明はいらないが、「史」の字については許慎(後漢の学者)という人が解字をしています。
多くの漢字は、そもそもどういう意味を持っているのかということで、この「歴史」の「史」を見ますと、「史は、これその中を取る也」、即ち、真ん中を手に取ること、と解字しています。

 ではその「中」は何かと考えると、左右の中央が「中」か、上下の真ん中が「中」なのか。人は考えやすくするために「中庸をとるのだ」と言いますが、日本ではこの漢字の日本的な読み方をしています。
それは、「弓を射て、真ん中に当たる」ことで、「目的」の「的」を書いて「当たる」とも言いますが、これは「本当に当を得たものに当たった」という意味なので、この「史」の「中を取る」という言葉は必ずしも右から左の真ん中でも、上から下への真ん中でもなく、その重要な部分を意味するのだというものです。・・・”

 “私は韓国で日本研究所ができると、おしなべて、基調演説を頼まれますが、いつも「日本の研究をすることは、即ち、韓国研究の始まりである」と言っています。
その理由は先ほど例にとりました、古事記、日本書紀を読みますと、三分の一が新羅にせよ百済にせよ、韓国の話なのです。
古事記、日本書紀は八世紀に世に出され、韓国の一番古い本は十二世紀に出された「三国史記」、「三国遺事」という二つの本です。
この当時の、四世紀のへだたりは、大変なものなのです。
そんな中で三分の一が韓国に関する話であるからには、わが国の歴史であるけれども、わが国の姿が出てくることを習うことは、即ち韓国を理解することであり、故に、日本研究所は、必ず古事記、日本書紀を勉強せよ、と言っているのです。(中略)
大変残念なことに、いまだ韓国語で古事記の全巻、日本書紀の全巻は本訳されていません。
それに対して日本では「三国史記」も「三国遺事」も翻訳されています。特に「三国遺事」などは和歌山大学で、約三〇年間にわたって研究会が続けられています。・・・”

 崔書勉先生のお話は、巧みな話術もあいまって、面白く、鋭く、深く、広く、汲めども尽きることのない泉のように、限りがない・・・。

 お元気な先生のお話を身近に伺える恩恵に、改めて深甚より感謝しています。
二〇一七年六月三〇日



 


『崔書勉先生と私』
 (ハナから小生意気なまま破門されずに末弟子席居座り)
 小野 五郎

 崔先生に最初にお目にかかったのは、先に「五十五周年記念誌」の中で落合さんや草原さんから紹介があった伊豆天城での勉強会でした。
 講師たちのどれも生煮えな話に飽き飽きしていたちょうどその折、登壇した得体の知れぬ人物の口から出たのは、中身こそ忘れましたが唯一内容が濃いものでした。
で、それまでの時間を無駄にしたという思いから、さっそく不躾に議論をぶっかけてみました。

 というのは、講師が韓国人だと分かり、アジ研における中韓研究者との共同研究会で、中曽根内閣が日本の国防費をGNP1%基準から僅かに超えさせたことについて、中国人研究者が真正面から「絶対看過できない」 と強硬に非難したのに対して、韓国人研究者が「韓国人たる私の立場からは言いにくいことだが、日本の軍備増強は韓国にとってたしかに脅威ではあるけれど、それ以上に中国の軍備増強の方が脅威だから、それとのバランス上、日本にもそれなりの軍備をしてもらった方がいい。
第一、そもそも1%を超えたとは言ってもほんの僅かな金額で、中国の軍事費増額分と比べたら全く取るに足らないではないか」と反論したのを思い出し、それが韓国人一般の感じ方なのかどうか知りたかったからです。

 ところが、「私は歴史文化が専門で政治的な話は分からない」という、まるでその辺の洟垂れ小僧扱いではぐらかされ、その上、それをそのままにして司会者が話題を転じたため、全く釈然としないままに終わってしまったという訳です。

 それでも、幸い勉強会終了後、たまたま浴場で出会ったもので、これ幸いと、当時うろ覚えしていた韓国語で改めて挨拶し「若い時に一度ソウル・キョンジュ・プサンと回ったことがある」と話して渡りをつけ、夕食後に時間を取ってくれるよう頼みました。

 約束どおり畳の上に浴衣がけでどっかと座っている勇姿を見い出した私は、おっかなびっくり前に行き、今度は単刀直入に慰安婦問題について「ベトナム派遣韓国兵も連れていた」との現地情報を交えて見解を問うてみました。
すると、ここでは当方の度重なる無礼にもかかわらず、不愉快な顔一つしないで、昼とは打って変わった歯切れのいい回答が得られました。で、つい喜んで杯を重ねているうちに、「みんなを連れて一緒に韓国に来ないか」という誘いがあり、「ぜひそうさせて戴きたい」などと答えているところに、他の受講者も参加しはじめ、いつか韓国行きの話は、そちらに引き取られていきました。
お蔭で、後は、皆さんに御膳立てして戴いた旅行中、半ばお客さん気分で韓国のあれこれを味わうこととなりました。

 この訪問期間中、何人もの韓国政府要人に紹介され、その時になってはじめて崔先生が本来なら私ごときが近寄るも憚られる大物だと知ったという、今にして思えば全くもって面目ない話です。
なお、付言しますと、
韓国でも他のアジア諸国同様「アジ研」の名前が非常に浸透していると知り、日本政府がなんでそこを十分に活用しないのかと残念に感じているところです。

 いずれにしても、ほとんどの参加者が官僚ということで、みな生真面目に振る舞う中、私自身は学者という気楽な立場で、ただ一人随分と勝手な言動に終始し、他の参加者諸兄・諸姉をハラハラさせてしまいました。

 例えば、交歓パーティの席上で、崔先生から「君、自己紹介がてら何か言いたいことがあるんでは・・・」 と水を向けられ、
 「私は、五郎という名前のとおり男ばかり五人兄弟の末っ子です。で、子どもの頃、年の離れた長兄をおいて、年の近い次兄と三兄とがいつも兄弟喧嘩ばかりして困っていました。
というのは、三兄の方が次兄より体も大きいし力も強い。
しかも、自分が小さい時に次兄に世話になったことなんかすっかり忘れている。でも、次兄の方は、あくまで自分が上だと思ってるから、どちらも譲らない。・・・これって、下の小さな弟たちからすると、とっても迷惑なんですよね。ま、アジアでも、日本や韓国より小さい国がたくさんあるんですが・・・」
てなことを言い、日本側参加者数人から「そんな微妙な話は、友好を深めるために催されたこの席には馴染まないよ」ときつくたしなめられたり。・・・もっとも、韓国側からは参加者数人が「いい話をしてもらった」と改めて挨拶に来てくれたんですが・・・

 付言しますと、別の場ではありますが、安重根居士への認識なども「韓国の人にとっては英雄、日本人から見ると暗殺者。
その韓国人の目で日本を知り尽くし、その日本人の目で韓国を知り尽くすことこそ『日韓談話』じゃないかな」なんて偉そうに申したこともありました。
で、先生からは「本当に韓国を知りたきゃ、少なくとも安重根義士記念館、西大門刑務所、白凡記念館の三ヵ所だけは見て来なきゃ」と言われたもので、後に私的に韓国を訪れた際と合わせ三ヵ所すべて見学して参りました・・・少しは分かったのかな?

 その折に気になったのが、日本語訳の説明がどこも自国民を対象にしたものをそのまま直訳したものだったということです。
このため、日本人の多くは、「安重根義士が伊藤博文を処刑した」と聞いて「また、韓国人は嘘をついて。あんなのただのテロじゃないか」、あるいは「日帝は多数の政治犯に残虐行為を行なった」と聞いて「なるほど日本軍というのは、国内ばかりかこっちでも、ずい分悪いことしたんだな」(裏返せば、「日本人一般も軍の犠牲者であり、韓国でも悪いことをしたのは軍だけで一般人ではない」と認識する)という反応を示すに違いありません。
だからこそ、若い日本人が、我々日本人にとっては史的恥部となる遺跡で、平気でイチャツキながら記念写真を撮ることにもなるし、それを見た韓国人がますます反日的になっていくことにもなる。
・・・ここは、第三者的に表現すれば「安重根居士が民族の恨みを晴らした」のであり、韓国人にとっての史的憎しみの対象は抽象的な「日帝」とか「軍部」だけなのではなく、民間人を含む日本そのものだということ。我々日本人は、自分たちの祖先の多くが、韓国の伝統・文化を破壊し、韓国の愛国者を弾圧したという史的事実をあるがままに正確に理解しなくてはならない・・・なんて偉そうに言ってました。

 そんな、いわば若気の至りで(当時すでに五十近く、決して若くはありませんでしたが)ヤンチャばかり、 それがその後も談話室などでつい出てしまう。
・・・それでも、受け止めて下さるのが崔先生だ・・・と勝手に信じ、七十をとうに過ぎた今でも言いたいことを言わせて戴いています。・・・はい。どうもすみません。





『崔書勉先生と私』
 駐福岡大韓民国総領事
 金 玉彩 (キ厶・オクチェ)
 
 私が崔書勉先生に初めてお会いしたのは、一九九九年、二度目の駐日韓国大使館勤務からだと思います。
寺田佳子様が経営されていた六本木のフレンチレストランで日韓談話室のメンバーと初めて挨拶を交わした記憶が鮮明に残っております。勿論、以前本国で日本デスクを担当していた頃から崔先生のご芳名は伺っており、先輩から日韓談話室の会合にオブザーバーとしての参加のお誘いを頂いた時は喜んで承諾しました。
以来、一等書記官、参事官、公使など肩書きが変わっていき、二〇一六年秋、東京を離れるまで東京滞在十一年間、出来る限り談話室の会合に参加しようと努めました。
そのお陰で、崔先生の卒寿祝いにも参加することができました。
私は談話室の会合を通じて書物で断片的に辿ってきた韓日の秘史を崔先生の克明な証言によって肌で感じ取ることが出来ました。
それ以前は、主に八〇年代以降の韓日関係だけに絞られていた私の知識が二〇年を繰り上げ六〇年代まで遡ることができ、理解の深さと幅を広げることが出来ました。
現在、私が有する日本に対しての認識は崔先生の教えから多大な影響を受けたものだと思います。

 談話室に参加して私は主に崔先生を始め皆様の発言を聞き入る立場だったものの、時には発言を求められる場面もありました。
韓日関係は常に山あり谷ありでしたが、二〇一二年以来冷え込んでいた韓日関係に対して今は亡き寺田様から「日本が今まで何回も反省し謝罪したにもかかわらず、韓国は何故今も謝罪を求めるのか?」と質問を受けたときは胸が痛む思いでした。
その後、寺田様が他界され、大使館の代表として葬儀に参列した時、
「果たして彼女の問いに対する私の回答に彼女は納得したのだろうか?」と自問自答しながら御霊前にご冥福を祈りました。

 私は、去年十一月に第十七代駐福岡大韓民国総領事として赴任し「先人の知恵から学ぼう、韓日の真の和解と友好は九州から」とのスローガンを掲げ、公務を務めています。
近·現代史においては韓日両国の認識の相違から論争を繰り返しても結論を出すのは難しいと東京での十四年間の経験で痛感したからです。

 新羅が韓半島を統一する以前まで古代韓半島の国家だった伽倻と百済、日本の大和朝廷は兄弟国家以上の関係だった事実が数多くの歴史の記録、遺跡として九州、畿内の各地域に残っています。
国境もビザもなく、民族と言語、文化を自由に交流した輝かしい古代韓日関係にもう一度、蘇らせることは出来るでしょうか?

 終わりに、談話室会員皆様の益々のご健勝を祈念申し上げるとともに、今後とも御指導御ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。





『崔書勉先生と私』
 (近時の日韓関係を憂う ―崔書勉先生への感謝を込めて― )
 草原 克豪

 私にとって韓国との最初の接点は崔書勉先生との出会いであった。
今からちょうど二十年前の一九九七年八月、ある勉強会で先生が講師として来られたのである。
それまでは韓国とはまったく縁がなく、韓国を訪れたこともなければ、韓国人と会ったこともなかった。
だから私にとっては、韓国=崔書勉先生である。実際、崔先生抜きの韓国は考えられないのである。

 最初の出会いからまもなく、崔書勉先生のお世話で勉強会の仲間と週末を利用して初めて韓国の土を踏んだ。
国会議事堂では金守漢国会議長の「日韓関係がよくならなければ、それは時代の要請に対する怠慢であり、歴史への背反である」という言葉に強い感銘を受けた。

 拓殖大学創立百周年記念事業で学生海外派遣団を率いて韓国を訪問した際には、崔先生のお計らいで李東元先生が理事長をつとめる東元大学も訪問し、かつて外務長官として世論の反対をおしきって日韓基本条約を締結した李東元先生の教育者としての一面に触れることができ、改めて深い感動を覚えた。

 帰国した日にはこれまた崔先生のお蔭で来日中の金鐘泌前国務総理主催の茶話会にお招きを受け、「日韓の友好親善のため今後とも命ある限り尽したい」との金先生の決意表明に心を打たれた。
「学生を連れて韓国を訪問し、先ほど帰ってまいりました」と申し上げると、「この次は私に知らせてください」との言葉も頂いた。

 折しも一九九八年の金大中大統領と小渕恵三首相との会談で「二十世紀に起こったことは二十世紀中に清算して、新しい決意で新しい世紀を迎える」との意思表明がなされ、それを契機に、サッカーワールドカップが日韓共催で開催されることになり、さらに天皇陛下が「桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べて、日韓両国の交流が良い方向に向かうことを願う気持ちを示された時期でもあった。

 その流れに掉さすように、日本政府は韓国人教員の日本招聘事業と日本人教員の韓国派遣事業を開始した。
韓国側もこの事業を高く評価し、のちに韓国政府が日本人教員を招聘するようにもなった。
私もその招聘を受けて日本人教員団の団長として韓国の学校を視察する機会に恵まれ、地道な人的交流の重要性を実感した一人である。
 日韓談話室ではいつも崔書勉先生の明快で含蓄のある講話を通じて韓国を身近に感じることができたし、天皇陛下の早期訪韓への期待も高まっていた。
談話室でお目にかかった朴槿恵氏が大統領に就任したことも新しい
時代の到来を予感させるものだった。
誰もが日韓関係の未来に明るい展望が開けることを期待したのである。
 だがその期待は裏切られ、希望は失望に変わった。
朴槿恵政権は国内の親北左翼勢力に牛耳られたのか反日的政策を展開し、後任の文在寅大統領は、国際約束もどこ吹く風とばかりに国民情緒を優先してはばからず、北朝鮮の脅威を前にして右に左に揺れ動き、一向に立ち位置が定まらない。
これが韓国の真の姿なのだろうか。

 新渡戸稲造は今から百年も前に次にように述べた。
「朝鮮が強力かつ良く治まった真の独立国であるかぎり、それは緩衝国といえようけれど、その国があるいは中国の勢力下に、あるいはロシアの勢力下に揺れるとなると、極東には平和の保障はありえないし、日本にとって安全はない」。
この視点に立って彼は、朝鮮が強力で良く治まった真の独立国であれば日本が併合する必要もなかったと言う。

 振り返ってみれば、日清戦争にしても日露戦争にしても、西欧列強のアジア進出が最終の局面を迎えたなかで、朝鮮半島の安定をめぐって日本、中国、ロシアの利害が衝突したために起きた戦争だった。
そして、この地政学的な構図は百年以上経った今日においても基本的に変わっていないのだ。
そのことを改めて思い起こさせられる昨今の国際情勢である。

 それにしても、韓国の国内事情は私たち日本人には理解しにくいことが多い。
私たちの目には見えないところで国論が複雑に分かれて、政府は右からも左からも信頼されていない。
反日という一点においてのみ国論が一つにまとまるのだ。
それにしても、なぜそれほどまでに反日感情が強いのだろうか。

 確かに韓国は台湾と違って、長い歴史とすぐれた伝統文化をもつ国である。それだけに、自分の弟分とでもいうべき日本の統治下に置かれたことで、一層強い屈辱感を味わうことになったのであろう。
そうした感情は日本人としてもある程度は理解できる。
しかしそれが韓国文化の伝統である「恨」の感情に結びつくと、日本人
の理解を超えてしまうのだ。

 反日感情の背景には建国をめぐる歴史観の問題が絡んでいる。
韓国の憲法前文は、一九一九年の三・一運動によって上海にできた大韓民国臨時政府を現在の韓国の前身と位置付けているのだ。
自分たちは日本による統治を認めず、ずっと日本と戦い続けてきたのだと言いたいのであろうか。
日本人にとってはびっくり仰天の歴史観である。

 だがこの臨時政府なるものは国際的に承認されたものではないし、日本とは戦争もしていない。
第二次世界大戦の参戦国としても認められず、サンフランシスコ講和条約への署名も認められなかった。
現在の韓国が成立したのは国際法上はあくまでも一九四八年であって、憲法前文の規定は虚構あるいは幻想に過ぎない。

 戦後になって朝鮮は日本の統治から解放されたが、それは自ら独立戦争を戦って勝ち取ったものではなかった。
北はソ連、南はアメリカの占領下におかれ、南に大韓民国が成立すると北には朝鮮民主主義人民共和国が成立して内戦が勃発し、劣勢に追い込まれた大韓民国は米軍の支援でようやく解放されたのである。その結果、韓国人は自己のアイデンティティを確立することができず、それによって鬱積した不満や恨みが、筋違いではあるが、かつての統治者である日本にぶつけられることになったともいえる。

 また韓国政府は、日韓基本条約によって両国間での問題は全て解決したにもかかわらず、国民に対しては条約に基づく十分な補償措置を講じてきたとはいえない。
そのことが政府に対する不信感につながり、慰安婦問題や徴用工問題などの一因ともなっているのだ。
さらにこれまで韓国政府が意図的に進めてきた反日教育の影響も無視するわけにはいかない。
政府の教育を通じて国民の間に植え付けられた反日感情が、結果的に日韓関係改善に取り組む政府の足枷となっているのである。

 日本は日本で、これまで過去の歴史の事実を学校できちんと教えてこなかったことを反省しなければならない。
だがそれにしても、現実を直視せずに過去にばかり目を向け、しかも歴史の事実を歪曲あるいは捏造までして、他者に責任を転嫁することで自己を正当化しようとする一部の韓国人の態度は、まるで駄々っ子のようだ 。

 日本側にも責任がある。
戦後の日本人は、GHQの占領政策の下で、戦前の日本のしたことはすべて悪かったと教え込まれた。
こうして贖罪意識を植え付けられた日本の知識人たちは、左翼的立場から日本の過去を批判し、韓国や中国の反日運動を助長する役割を果たしてきたのである。

 今でも日本には、特定の国に対して現実を無視した幻想を抱き、日本だけが間違っているかのような物言いをする人が少なくない。
それを論調にしているマスメディアも存在する。わざわざ外国にまで出かけていって、日本の悪口を言いふらす政治家やジャーナリストも残念ながら後を絶たない。

 しかし時代は変わりつつある。
近年は歴史の検証が進んだ結果、過去の事実に対する理解が進み、韓国の主張には事実の歪曲や捏造が多く含まれていることが次々に明らかにされてきたのである。

 それにもかかわらず繰り返される昨今の韓国の執拗な反日運動は、日本人の間にいたずらに韓国嫌いを生み出すばかりで、日韓関係の悪化を意図した悪質な行為としか言いようがない。
もっと現実を直視し、時代の先を見通した冷静な対応をするよう韓国側に期待するのは、過大な望みなのであろうか。崔書勉先生もさぞかし心を痛めておられるだろうと思うと、残念でならない。

 日本として重要なことは、相手の言い分には耳を傾けるが、理不尽な要求に対しては毅然と対処することだ。
とはいえ、韓国人の示す感情的な反日的言動に対して、日本人までが同じレベルで感情的に対応したのでは問題の解決にはならない。
反論すべきことは事実をもってきちんと論理的に反論しながら、あくまでも冷静かつ理性的な態度で、相手の心情をも思いやりながら、辛抱強く接していくしかない。
それが隣国としての宿命である。

 ところで、一方ではこのように日韓関係が悪化しているにもかかわらず、近年日本を訪れる韓国人観光客は相変わらず増え続けている。
これをどう解釈したらよいのだろうか。その理由はともかくとして、少なくとも一般の韓国人が反日感情に凝り固まっているというわけではなさそうだ。
だとすれば、こうした大衆レベルの接触が増えることによって、両国間の相互理解が深まる可能性はありうるし、ぜひそういう方向にもっていかなければならないと思う。
韓国政府にはこうした現実を直視して、未来志向で日韓関係の改善に取り組んでほしいと願わずにはいられない。

 日本はもともと八百万の神の国であり、多神教の国である。
「和を以て貴しとなす」国である。
だから白か黒かのどちらか一つが正解で、それ以外は間違っているとは考えない。
内部では様々な意見があろうとも、外部に対しては一つにまとまる。
それが日本人の生活の智慧であった。そのためには忍耐と寛容の精神が必要であり、何よりも相手に敬意がなければならない。
国と国の関係においても同じであろう。

 日本は決して好戦的な国ではない。
侵略的な行動をとったのは二十世紀の前半の短い期間だけであり、それも西洋列強による膨張的な帝国主義に対抗しようとしたためであった。
軍国主義が日本の本質ではないことは、戦後七十年間の歴史を見れば明らかである。



 


『崔書勉先生と私』
 (なぜ濃厚な人間関係を築けるのか)
 静岡県立大学教授 小針 進

 〈文教部長官(文部大臣)が韓国から来て、「おい、おまえ、福田赳夫先生を紹介しろ」と。
仕方がないから福田先生へ、
「文部大臣が来て、ぜひ先生に挨拶したいと言っている」と言ったら、
「その日の七時に、赤坂の大野という飲み屋に来い」とおっしゃる。
ところが、その日のNHKニュースで福田さんが「京都で講演を終わった後、車に乗るときに倒れて入院した」と報じた。
文教部長官は「もう今日は来ないだろうな」と言うから、「福田さんは非常にマメな性格なんだ。
来れなければ連絡がある。私は行く」と返答した。
二人で七時に大野へ行ったら、福田さんがもう来ている。
狐につつまれた。福田さんは「いやあ、文部長官はお元気ですか」という調子で、私が「先生、怪我したんじゃなかったんですか」と問うと、「いや、自動車に乗るときに滑って・・・ゆっくり休めてちょうどいいやと思って(しばらく入院した)。
きょうは約束だからちょっと早めに来たよ」と〉

 これは七〇年代の東京生活でのエピソードをめぐる崔書勉先生の語りだ。はっきりした日時はわからないが、福田赳夫氏が田中内閣で蔵相をされていた時と思われる。
何があっても約束を守る福田赳夫氏の律儀さがわかる。
日韓関係を重視する視点もあったのであろう。
さらには、崔書勉先生との友情もあったはずだ。
 このエピソードからは、崔書勉先生の存在感もわかる。
大物政治家と簡単にアポイントメントをとることができ、その人物が怪我を負った日でも約束の場所に来させてしまう。
それは福田赳夫氏の寛容さだけでなく、崔書勉先生の人間的な魅力ゆえなのか。
当時、福田赳夫氏(一九〇五年生まれ)は六〇代後半、崔書勉先生(一九二八年生まれ)は四〇代中盤であったはずだ。
「友情」といっても、年齢差は二十以上である。

 ところで、ここで「一九二八年」とさらっと書いたが、「一九二六年生まれ」と書かれたものなど、崔書勉先生の生まれには諸説(?)がある。
ご自身が次のように語る。
〈韓国の国家機密に属することですが(笑)、私の歳を知ってる人はほとんどいません。
じつは一九二六年生まれではなくて、二八年生まれです。
なのに、二十六年生まれになったり、あるいは一九一九年生まれになったりしていて、たとえば朝日新聞が、「新聞に出すごとに歳が違っているので、本当の歳は幾つなのか」と、正式に聞きに来たことがあります〉
なぜ、そうなったかと言えば、その一つの理由をご自身は次のように述べている。

 〈岸(信介)先生はじめ日本の政治家は、韓国のいわゆる朴政権における若い世代のクーデターグループの歳を見て、「若いのはいいな、いいな」と褒めているので、「なんで褒めていますか」と言ったら、「自分たちはもう年で、あの若さはお金では買えないんだ。若いのはいいな」と言いながらも、尊敬の念がそこに入っていないのを僕は見抜いて、「ところで、崔さんは幾つなんですか」と聞かれたときに、正直に答えたくなかった〉

 したがって、崔書勉先生が日本にやって来た一九五七年の時点で、年齢は二十八歳か二十九歳ということになる。
まだ三〇歳にはなっておられなかったわけだ。
当時、〈日本に着いて、I did'nt have a friend,even one acquaintance―――と言いました。皆さんは不思議に思うだろうが、当時一人の友だちも知人もいなかった〉
と証言される。

 福田赳夫氏とのエピソードからわかるように、それからあっと言う間に濃密な人間関係を日本で築いたわけである。
一九七七年七月二一日には滞日三〇年を祝う会が東京で開かれているが、発起人には大物思想家、閣僚経験者、財界人、大学学長、国会議員、ジャーナリスト、弁護士など、当時の有力者やオピニオンリーダーばかりである。
しかも、その濃厚な人間関係は、韓国へ戻って三〇年を経て、日本上陸から数えて六〇年となった今でも続いている。

 なぜ、このようなことが可能なのか。
「時代」がそうさせた側面もあるだろう。
しかし、「崔書勉」という人間そのものに、何かが隠されているように思えてならない。

 そんな思いから、崔書勉先生が生まれてからの歩みや日韓関係にかかわる体験を聞き書きする研究を、私は他の研究者仲間と二〇一一年四月から取り組んでいる。
こうした作業をオーラルヒストリーというが、ここで〈カッコ〉で示した引用のすべては、その聞き書きの一部である。

 聞き取りはほぼ終えて、それを記録化して推敲する段階に入っている。報告書形式で刊行できる日も近くなってきた。
この作業をしながら、「崔書勉」という人間そのものへの魅力を感じる語りが多いことに気付く。

 たとえば、
〈李承晩政権に追われたにもかかわらず、公開の講演で李承晩を謗らなかった〉そうである。それは
〈「君子はその国を貶めず」を肝に銘じてきたからだ〉という。
聞き手が、その言葉の意味をわからないという顔をすると、
〈「君子は、不幸にも自分の国を追われたけれども、逃げた国に行って自分の国を謗らない。これは君子の徳である」というのが、小さいときからの習わしというか、聞き覚えだったわけです〉
と教えてくれる。さらに、
〈日本でも、大山郁夫という人が日本からアメリカに亡命したけれども、彼はアメリカに十年いる間、日本の悪口を言わなかった。
主義主張の悪口は言っても、人は謗らなかったので有名だ〉と続ける。

 自国・他国を問わず国やその国の人をむやみに非難しないという主張そのものに共感できるし、「君子はその国を貶めず」という言葉がすぐに口から出て、例として大山郁夫という人物名がパッと浮かぶ反応にも驚く。
こうしたスタイルでの語りが実に多い。

 主義主張を離れて、「ただ者ではない」というオーラを感じる連続が、崔書勉先生へのオーラルヒストリーなのである。





『崔書勉先生と私』
 (人たらしの崔先生)
 NPO法人日韓祭り協会理事兼事務局長 
 権 鎔大

 私にとっての『崔書勉』はマスコミに出てくる日韓のフィクサーというイメージで、必ずしも明るく清潔な感じではありませんでした。

 二〇〇二年に再度日本勤務を命じられ東京に赴任して大森さんや落合さんらとお付き合いするようになって、先生とお会いしたと記憶しています。
本来なら韓国人の私が日本の方に紹介するのが自然なのですが、当初その逆なので何か居心地が悪くぎこちなさがありました。
最初は御覧の如く強面で近寄りがたい印象でしたが、先生のフランクで飾らない性格のお陰ですぐ打ち解け今日に至っています。

私と先生とのここ数年のかかわりは一本の電話から始まります。
先生が東京にいらっしゃり
「今着いたよ!」「いつまでいらっしゃるのですか?」「○○日まで」「夜はいつ空いていますか?」「○○日」

 早速先生と親しくしている皆さんに電話をして日程を調整し、楽しい晩餐会を開く準備にかかります。
大体が急な連絡でなかなか日にちが決まりません。
 もっと前もって連絡してくれれば、楽なのにと思いますが、事前に連絡しないのはみんなに負担をかけない為の先生の配慮であることに気付いてからは、限られた時間内でいかに多くの仲間が集える日程を組むか、くつろいだ雰囲気の中で楽しく食事をして頂けるようにするのが腕の見せ所になっています。
思うように集まらないときは綺麗どころ(?)をお呼びしてアクセントをつけることもあります。

 この集いは常時八名から十二名で今も続いています。
また韓国に行くときは先生主催の晩餐会を旅程に組み込むのが習わしで、先生は奥方に贈り物をする細やかな気配りを欠かせません。
それだけでなく崔先生のすごいところはどんなに身分が低くても年が若くても相手を一人の人格として認めて接することです。
定宿にしている讃岐会館の人々はもとより、図書館の事務員、食堂の店員や高級官僚に至るまで親しくし先生のフアンにしてしまうのには恐れ入ります。

 時には韓国の大統領、日本の高貴な方にお会いしても臆することなく接していらっしゃる先生が
「私たち下々にまで気を使ってくださるなんて…」
と思わせるその気さくさに頭が下がると同時に、彼らから情報、知識、ヒント、サービスを得るのですから流石と言わざるを得ません。

 私もそんな先生の虜になり先生の用事は嬉々とこなしており、常に最優先して迅速に行っています。
そして一つでも先生のあの大きなお腹の中に詰まっている知識をすくい上げ、また日韓における先生の品格ある対処法を学び取るよう心がけていますが、頭が悪いもので思うように学べておりません。
ですから先生は私の為に一〇年後の一〇〇歳まで生きて頂かないと困ります。

先生!どうか健康で長生きして下さい!

 先生!「権君!お前は一〇〇歳まで生きろといったけどもうとっくに過ぎたよ!」と高笑いする愛嬌のあるお顔を末永く拝見させてください。

P.S. 最近崔先生のインタビュー記事が韓国の権威ある雑誌に載りました。『月刊朝鮮』二月号で先生は昨今の日韓関係を憂い韓国人に歴史を紐解き、理解を深めるよう話されました。
日韓関係は「唇亡歯寒」の関係だとおっしゃり「親日派」を排除してはいけないと韓国で最も尊敬されている金九先生の言葉を引用しながら、韓国人を啓導しています。
 又天皇陛下や岸首相らの韓国との縁を通じて両国のつながりを紐解き、仲良くすべきだと呼びかけています。
記事の内容から韓国人に罵倒されそうな発言が随所に見受けられますが、先生は例え非難されてもこれだけは両国の為に言っておくべきだと意図的にお話をなさったような個所が見受けられました。
両国の関係を憂うものとして頭が下がる思いです。



 


『崔書勉先生と私』
 (株)クレディセゾン常勤監査役 
 櫻井 勝

 崔書勉先生は、私達にとっては大変失礼ながら「お友達崔先生」である。崔先生のお考えに関係なく私達の思い込みかもしれない。
「私達」とは、崔先生を囲む一〇数名のグループであり、昨年四月の九〇歳のお誕生日をお祝いする会で日韓談話室の方々とごいっしょさせていただいた者達である。メンバーは何組かの夫婦等からなる。

 崔先生には落合一秀さんが主宰する中国関係の研究会で初めてお目にかかったが、特に親しくなったのは、〇六年にメンバーの中心的存在である大森寿明さんのお嬢さんがハワイ留学中に知り合った韓国人男性とソウルで結婚式を挙げてからのことである。
一般人の結婚に過ぎないのに、結婚式には日本から親戚・我々仲間等三〇数名が参加、これが崔先生の目にどう映ったかは知らない。
それ以来、崔先生が来日される度に先生を囲んで懇親会を開いている。赤坂等で鳴らした崔先生には申し訳ないごく普通の居酒屋・レストランでにぎやかに楽しんでいる。
もちろん毎回、過去の日韓関係の背景・秘話、竹島問題をはじめとする現在の日韓問題等について崔先生から極めて意義深いお話しを拝聴し、極めて貴重な機会となっている。
同時に崔先生は、メンバーの家族のこと等にも話題をふるなど意外な人間的側面を見せてくれる。

 この会の常連には、権鎔大さんや堀口松城さんがおり、小川郷太郎さんや黒田福美さんも時々参加される。
この会での私の苦痛は、前述の結婚式で私が下手な韓国語で祝辞を述べ歌ったことを崔先生が喜ばれ、その後も会合の都度それを再演しなければならないことである。
二、三度は苦痛と言いながら結構楽しみながらやっていたことも事実であるが、仲間がまたかという眼差しで聴いているような気がして気が引けるのである。
このグループで何回も韓国を訪問したが、その都度崔先生が私達のために開催していただく夕食会の席上でも同様であり、韓国高官の前でやらなければならない時も多い。
この時は内容を変え、例えば「東アジアにおける平和と安定は・・・」などとやや格調高くやらねばならず、事前の準備と直前の韓国語丸暗記がしんどく、これを終えなければ酒も食事も楽しめないのである。
もっとも最近は私も崔先生の「命令」から逃げるのが上手になってきた。
 もう一つの苦痛は、懇親会場が二階や地下でエレベーター等が無い時、知識が一杯詰まった大きなお腹を秘書の方といっしょに前後左右から抱えなければならないことである。
これも苦痛と言いながら崔先生との身体的密着により共に生きていると実感できる楽しいひと時でもある。
一番最近の時は崔先生の体の動かし方がこれまでより軽快に感じられ、とても嬉しく思った。

 大きなお腹といえば、ある時崔先生の依頼で菊池光興国立公文書館館長(当時)を紹介したことがある。
このことを崔先生はとても喜び感謝された。
この菊池さんは私の高校の一年先輩だが、崔先生にひけをとらない巨漢で、大きなお腹の持ち主である。
性格的にも温厚で気配りのある点、崔先生によく似ている。
同氏も読書家だから、大きなお腹にはやはり知識がたくさん詰まっているのだろう。
崔先生は同氏と馬が合うようであった。
お二人のお腹がいつまでも大きいままでありますように!

 私が日韓談話室に加えていただいたのは、大森義夫元内閣情報調査室長の推薦である。
大森義夫さんとは、ロッキード事件捜査で私が香港に派遣された時、領事として香港に駐在されていた同氏にお世話になって以来で、その後も役人時代を通じて可愛がっていただき、日本電気NECにも同氏からの「一本釣り」で入社させていただいた。
同氏はよく新聞、雑誌に寄稿し著作もあるが、これまた際立った読書家で崔先生との共通項がある。
上陸五十五周年記念号にも同氏の文章が掲載されており、その辺を窺わせる記述があるが、誠に残念ながら昨年九月十一日逝去された。

 役所の先輩と言えば、崔先生からは内務省時代の先輩方の名前をよく耳にする。
なかでも、秦野章元警視総監・法務大臣が参議院外交委員長時代に訪韓した時の安重根をめぐる逸話は面白く、タカ派のイメージが強烈な秦野さんのハト派的かつ幅広い側面を垣間見ることができた。
また、日本上陸直後某警察庁筆頭課長が崔先生に名刺を渡し、困ったことがあればこの名刺を提示すれば大丈夫と保証した由、崔先生の人脈の広さにはいつも驚かされる。
まだまだ興味深い秘話もあるが、事柄の性質上この程度にしておきたい。

 私の自慢話は、崔先生から香港製麻雀牌をいただいたことである。
懇親会で麻雀に話しが及び、崔先生が次回来日の際に君に麻雀牌を持って来ると述べられた。私はうかつにもすっかり忘れていたら(先生ごめんなさい、今初めて白状します。)、次の来日時に持参いただいた。とても重いもので、有難いのと崔先生の相変わらず抜群の記憶力には、ただただ脱帽した。
なお、前述の私達のグループには女性が数人いるが、女性への気遣いは男性へのそれをはるかに上回っていることも指摘しておきたい。

 上陸六〇周年の記念集にはふさわしくない雑文となり、しかも敬愛する崔書勉先生に対してははなはだ失礼な文章となってしまったが、いずれも崔先生との小さな思い出深い歴史であるのでご容赦いただきたいと思う。
私達は崔先生との楽しい交流を大事にしながら、これからも日韓相互理解を深めるため地道な努力を続けて行く所存です。
 崔先生、今度はいつ日本に帰って来ますか?



 


『崔書勉先生と私』
 (崔先生のこと)
 嶋本 操

 崔先生とはお話をする機会も少ない私は、感想をお書きすることしかできませんが、お許しいただけたら幸いです。

 私にとって崔先生は「大きい」方という印象です。
私は二〇〇六年まで、故シスターブリジッド・キオと同じところに住んでいましたので、時々崔先生をお見かけしていました。
崔先生は、シスターブリジッドがお願いすると、どんな時でも、どんな場所からでも飛んで来られて彼女を助けてくださっていました。
今思いますと、こんな偉い先生がまるで当たり前かのように、お国に帰っておられる時にさえ韓国からでも、飛んできてくださったのです。
このことは先生が、特別にお心の広い、情に篤い方だということの表れだと思います。
私はこのことから、韓国の方々の感恩の心は特別なものに違いないと思うようになりました。
そのなかでも崔先生は特に優れてそうでいらっしゃるに違いないと思います。

 その目立たない静かななさり方から、先生の深い人生哲学やご経験の豊かさ、お人柄の奥行、ものの見方の広さ、人間と真理を愛されるお心などが伝わってきます。
そうした体験から私は崔先生が器の大きい特別な方だと尊敬申し上げるようになりました。
その例のいくつかをお話します。
今年の冬、「東京―故郷の家」の開所式にお招きいただいた時のことです。
崔先生はすでに来場され、席に着いておられました。
崔先生のご友人の一人と私がご挨拶のため先生に近づくと、非常に喜んで席を立って別室までご案内下さり、お茶をご手配くださいました。
そして沢山の写真を一緒に撮って下さり、「共に」在る喜びを分かち合ってくださいました。
祝別の祈りで始まる開所式が始まりました。
その間、私は隅々まで高齢者の方々へのご配慮が感じられるこの「故郷の家」に注がれた多くの方々の働きと愛を思いました。
企画実行に長い年月を重ねられたに違いないご関係の方々のご苦労を思いますと、特に貢献したわけでない私などにもこのような手厚いお迎えを頂くことは望外なことでした。
日本に移住しご苦労を積まれた韓国の方々のことを崔先生は覚えておられ、且つ私たち日本人の心も大切にして下さり、両国が仲良く平和に共存するよう祈っておられるのを感じました。
私は握手してくださったあの大きい厚い掌のような先生の人間としての温かさを思い出し、真の平和と友好とは何かを問いかけられております。

 今から一〇年ほど前に六本木のオズインターナショナルにお招き頂いたときのことも思い出します。
そこで、故寺田佳子さまはじめ、お集まりになられた各界のリーダー方が、崔先生に、親に対するかのように礼儀正しい、敬愛の情あふれる接し方をしておられるのを目の当たりにいたしました。
「崔書勉先生と私」という前回の出版物に崔先生を囲む会の皆様がお書きになったものを読ませていただき、私の印象が的を外れていないことを知りました。
日本が韓国を侵略し、不幸な時代を作った歴史の史料を深く研究され、日本でもまた、そのご研究を続けられました。
また日本人のものの見方などにも通暁され、両国のことを学問的に深くご自分の中に受肉しておられることを知りました。
ですから先生がお話になると、事実を正確に把握しておられ、物事の真実を語られるのがわかります。
韓国についても日本についても両方の国の真実を語られ、それでいて両国民に対する深い敬意と愛情が溢れているのです。
こんなに正直な話し方をされるのに、人が傷つかないのはおどろきです。
それは崔先生の神への深い信仰と人間への愛に支えられた生き方に基づいているからに違いないと感じました。
それはお会いするときの温かい面差しにも溢れていて、お会いする度にその思いはますます深くなります。

 金山元韓国大使の深い願いであった韓国に骨を埋めるという遺言を大切にされ、ついにそれを実現されました。
それは決して簡単な手続きだけでできることではなく、大事業だったことと想像されます。
先生のお人柄の大きさと誠実さを物語るエピソードだと思います。

 このように長年にわたり両国を真実に基づく友情へと呼びかけ続けておられる崔先生は、私たちに大切なメッセージを伝えて下さっていると思います。
即ち「事実を客観的に把握すること」「それについて真実に語ること」そして「どんな状況でも相手に神様の似姿を見出し、敬愛と信頼を以って人間同士として関わること」ではないかと思います。
崔先生という偉大な方を頂いたことへの深い感謝のうちに、先生の後に続く恵を祈りたいと思います。



 


『崔書勉先生と私』
 (スユクと旦那)
 毎日新聞 鈴木 琢磨

 ソウルは景福宮そば、内需洞といえば、朝鮮王朝時代の大蔵省とでもいうべき内需司に由来する。
いつからかは存ぜぬが、われらが崔書勉の旦那はここに住んでおられる。ひょっとして太っ腹なのはそのせいかもしれぬと思ったりするが、本人の弁ではあの腹中にはカネでなく、知識がつまっているらしい。
 その日はひとりの従者もなく、電動車いすを自ら操縦しながら、夕暮れの都大路を悠然とわたって、老舗のコムタン屋「白松」に現れた。
むろん上客のなかの上客である。奥の座敷に通されるや、ほどなく「名品スユク」が運ばれてくる。
看板は牛骨スープのコムタンだが、あえてとろけるほどやわらかい熱々のスユク(ゆで肉)を客人に供するところが心憎い。
「ソウル中を探してもこれだけは見当たらないからね」。
ヒゲが笑っている。
 使うのはキープしてある木製のはし。
呑むのは日本酒の熱燗。
「わが韓国の金属製のはしは重くていかんよ。酒はやっぱり熱燗に限る」。東京からの旅人には興ざめだが、マッコリでも呑みたい気分をぐっと抑え、こちらも熱燗をちびちび。
「このごろは韓国の新聞は読まんよ。
すっかり漢字を使わなくなったからね、読みづらくてしかたない」。
まさか親日派? と思いきや、座敷にはなにやら航空写真がかかっている。ああ、例の島だ。
 いくら青瓦台にも近いからといって、酒の席にまで愛国印の島がおでましになってはかなわぬ。
せっかくのご馳走がまずくなってしまいますわ、と嫌みのひとつも述べたかったが、こらえた。旦那はといえば、とろとろのスユクをいかにもうまそうにゆっくり熱燗で流しこんでいる。
まさに大人の風情。
「ところで、今回は何の用だね?」。
「まあ、ソウルの空気を吸いにきただけでして」。
そんな禅問答もどきのやりとりだけでいい。
新聞記者にとって最高のご馳走がやってくる。

 そう、日韓の歴史、その裏表を知りつくす旦那の時局解説「崔書勉アワー」である。
太鼓腹にしまってあったのか、おしげもなくとっておき政界秘話を開陳され、かつ最新情報も極上ものばかり。
その語り口が昔のイヤギクン(語り部)もかくありなんと思われる至芸ときているから、韓国の新聞社の幹部もしばしばここで耳の穴をほじり、スユクをつつくことになる。ちなみに李明博氏はここで大統領当選の知らせを待っていたし、近くの姉妹店「大松」は前国連事務総長、潘基文氏のひいきという。
韓国の政界はスユクでできているらしい。で、記事のヒントを得て喜ぶほろ酔い異邦人記者を尻目に、旦那はちゃっかり美人おかみとじゃれあっている。その芸がまた名品中の名品だ。

 都大路が騒がしい。旦那、最後の出番である。
今宵も電動車いすは「白松」へ向かっているだろう。
いつもよりスピードを上げて。





『崔書勉先生と私』
 西﨑 浩之

 関東を離れたのは、一〇年以上前。山口県に六年、兵庫県に五年。
崔先生とその周りの素晴らしい先生方のお話を伺うのを楽しみに、日韓談話室に参加させて頂いたことを、今でも懐かしく思っております。

 深く強い専門分野がないわけでもなく、発言や講演をする立場にはなく、唯々、皆様のお話を聞くばかりで、いつかは、私も何か講演できればなと思いながら、何もできずに、今に至っております。

 崔先生のお話の中で、「伊藤博文を射殺したのは、本当に安重根か?」というものがありました。
今まで、韓国の至る所で「安重根義士」とたたえられ、安重根が伊藤博文を射殺したことは、歴史的事実として語り継がれています。
なのに、なぜ。
私の、受け取り方が間違っているかもしれませんが、一つ一つの日韓関係史上の出来事を、客観的に、多角的な視点で分析して、「本当に正しいのか?」を検証することが、正しい歴史認識を形成していくうえでとても重要で、先生は、そのことを皆さんに伝えたかったのではないかと受け取りました。

 現在、日韓関係の中で、様々な歴史認識の差異がもとで、両国に軋轢が生まれています。
お互いが自らの持論が正しいと議論が平行線をたどってしまっています。
主に「日帝三十六年」の間に起きたことにつき、両国の論客が持論を戦わせていますが、論戦は収束に向かっているとは言えないのが現実です。

 残念ながら、すでに、「日帝三十六年」を生きた人々の多くがお亡くなりになっており、当時を知る人の証言を、いよいよ得ることが難しくなってしまっております。
当時何が起きたのか、地に足がついた証言をしていただける方がいなくなれば、歴史的事実の検証も、「空想化」に走ってしまうリスクが出てきます。
 その「空想化」に、歯止めをかけるのが、我々のすべき仕事ではないかなと思っております。
日韓関係を多角的に見る。
そのためには、目の前の著作物を鵜吞みにせず、韓国人の立場に立ったら、どう思うか、また、中国やロシアからみたらどう思うか。
そうした分析を習慣づけて、後世に伝えられたらいいなと思っております。
 また、「日帝三十六年」そしてその後も続いた戦乱の時代を韓半島で暮らしていた人たちは、命がけで生きてきました。
なぜ、韓国の国民感情は、これほどまでに、激しく燃えるのか。
「命がけ」で生きてきた先人たちの背中を見て育ち、様々な疑問が生まれた中で、日本に対しても、意見を投げかけてきたのかと思っておりま
す。

 我々日本人の先人たちも、第二次世界大戦で、多くの辛苦を伴いながら、厳しい世の中を生きてきたと思っております。
後世を慮りながら、お国の為に戦地に赴いた若き軍人も多かった。
日本も韓国も、その当時の先人は厳しい世の中を一生懸命生きてこられたと思っております。

四十代を生きる一人として。
飽食の時代を生きる一人として。

 一生懸命苦しみながら生きてきた先人たちの思いを受け継ぐには、先人と同様に、粉骨砕身命がけで生きることではないかと、最近思い始めております。
 家と会社との往復だけ、惰性で流すサラリーマン生活から脱却し、自ら課題を課して、日韓関係の勉強を続けていけることができればいいなと思っております。
 一生懸命勉強を続けていくことで、同世代の韓国人から共感を得られるよう、頑張っていければいいなと思っております。



 


『崔書勉先生と私』 
 西村 多聞

 もう遠い昔のこととなりましたが、崔さんとの出会いは全く偶然のことでした。
極めて有能な方ですぐに引き込まれ、その後、親密にお付き合いをさせていただきました。韓国に夫婦でお訪ねしたこともあります。

 一度は葉山にお迎えしてご一緒に生活したいと思ったこともあります。小生は間もなく八十歳、崔さんもいいお歳になられたことでしょう。

 葉山は緑濃きいい所で、今も鳶の声が聞こえています。海が近く、江ノ島や富士山がよく見えます。
 
 末永くお元気でご活躍されるよう祈っています。

平成二十九年五月吉日



 

『崔書勉先生と私』
 (身元保証人)
 日韓談話室代表世話人
 橋本 明

 彼の生まれ故郷、江原道原州を見てきた。Wonjuウオンジュという。
極寒の師走半ば、低地の山々は雪に埋れ冷たい風が襟元から遠慮なく入り込む。
目下のところ、市の目標は企業、住宅などを誘致するため更地になった百八十万坪の土地を開発することだ。
整地後の七割ほどが既に売却気味。
一区画二万五千坪ほどがポツンポツンと残っている。
時速一四〇キロでソウルからぶっとばして二時間半。
近くに二〇十九年冬季オリンピック会場があり、交通の便は飛躍的に向上する。

 羽田を飛び立った頃崔さんは東京に出かけていた。一七日帰国してすぐさぬき倶楽部を訪れ一階の部屋で会ったのだが、冬のウオンジュには何もなく、つまらない街だと一蹴されたものだ。
 ともかく日本は暖かく豊かで過ごしやすい。「ソウルに帰るのが嫌だよ」とつぶやいた崔さんの気持ちはよく理解できた。
 
 初めて日本の土を踏んだとき迎えにきていたカトリックの大物もとっくに亡くなっており、ほとんど一人ぽっちになった崔さんは無性に寂しくてたまらない。故郷の同級生も二人くらいしかのこっておらず、まして来日当時世話になった日本人は鬼籍に移ってしまった。
「私が一人生きているようなものだ」と述懐するのだが、寂しさを国会図書館、狸穴の外務省外交史料館に行って勉強する姿が最近の崔さんの日常だ。
 聖心女学院長マダム・キオの墓参りをきっかけに崔さんは滞日六〇年の行事を黄泉の世界巡りに当てる意向だ。
 キオさんに言われるまま、崔青年は一九五七年最高裁長官田中耕太郎に会う。
「私は法の番人だ。日本に密航した罪人からいくらヴァチカンにいかせてくれと言われても、再度罪を犯させるわけにはいかない。
むしろ君は日本に留まり、私たちに韓国情勢を伝えるなど教える立場にあるのではないか。
思いとどまって日本に腰をすえるなら私が君の保証人になってやるよ」
 そう言ってくれた田中耕太郎は私がついて行ってやる、と、その足で入管局長部屋に出向く。
局長はまずどこに上陸したのか質問した。
「それは言えない。私を権力者の魔手から逃れさせてくれた韓国の要人に迷惑をかけることになる。出来ない、言えない」
ごねる局長と渡り合う様子を長官は黙って眺めるだけだ。
ついに局長の方が折れた。
飛行機で張勉氏の手配に身を預けながら渡来したのだが、崔さんはついに口を割らなかった。
 滞在が長期に亘ったころ、入管局長が崔書勉を訪ねてきたことがある。分厚い書類をかざすようにして、ここそこに記入すればもう七面倒臭い滞在許可証申請手続きから解放されますよ、という。
崔さんは声を張り上げた。
「待ってくれ。私は自分が好んで日本にきたわけではない。故郷を捨てざるを得なかったからこうして日本にいる。永住権を得るためにこの国を訪れたのではない。面倒と思うのは君の勝手だが、私は規定道理に滞在許可証を申請して過ごす」
ほとんど怒鳴り上げた。

 筆者は崔さんに美学を見る。私が一人残ろうと、彼には日韓談話室があり、後輩や慕う人々を沢山抱えている。まだまだ生きていていただかねばならない人物なのだ。
 昨年(二〇一六) 私は崔さんに乞われて身元保証人になった。
田中耕太郎に比べるとあまりにお粗末な人間だが、これも生きのこっている身の一つの仕事なのであろう。さて、彼のお墓はどこにあったっけ。



 

『崔書勉先生と私』
 (学び・感じていること ・・・ 国際平和への一歩を)
 日韓談話室 世話人 兼 事務局長
 森松義喬

 項目
●運動 ●潤滑油 ●誠信の交わり ●隣国ゆえのお互いの悲劇 ●極東平和・東洋平和 ●崔書勉先生曰く ●お互いの民族の立場 ●災害の均衡 ●戦争も災害 ●ルールの作成 ●お金の後を追う   ●お天道様はいつもみている ●本音・建前 ●日本の戸締り ●価値観の遠くない国 韓国 ●意識の変革(気付き) ●何から始める ●右・左 ●昨今 ●父・私・子供 ●怪物の力 (文末)


●運動:
 「崔先生は、お酒はお強いし、柔道選手のような頑強なご体型、
  学生時代にはどのような 
  “運動 ” をされていたのですか?」

崔書勉先生曰く 
  「私はね “学生運動 ” ばかりやっていたよ。 わっはっはっ!」

(十六年程前の日韓談話室勉強会後の二次会の席にて)
ご自分の心身を鍛えるどころではなく、国を憂い命を賭しての闘いの大事を、大きな笑い声でご返答され、自分の質問内容の未熟さと当時に、崔書勉先生の「凄み」を改めて感じました。

崔書勉先生の学生時代は、金九氏(韓国独立党)傘下の大韓学生連盟委員長として走り回る勇猛果敢な青年期を過ごされ、無期刑の獄中にて、洗礼を受け、崔重夏から崔書勉に改名。出獄後、クリスチャンとして活動され、イタリア・バチカンへの「亡命」を志す。
その道すがら 六〇年前の今日五月二十七日、日本に偶然に上陸させられる事となった、と伺っております。

それら、崔書勉先生の(小説を凌ぐ)ご経歴の詳細は、今までほんの一部分しか公にされておりません。
今日 五月二十七日は「日本上陸六〇周年」のお祝いの宴はもちろんの事、私たち日韓談話室の代表世話人 橋本明氏が出版される『韓国研究の魁 崔書勉』の「出版記念会」も兼ね、崔書勉先生の生涯の一部分を日韓談話室会員等の皆さんと、そして代表世話人 橋本明氏の知人・ご友人の方々と一緒に確認し合える、というおおきな楽しみが相俟っております。

●潤滑油:
崔書勉先生は六〇年前の今日(一九五七年五月二十七日)、パスポート(旅券)が無いまま米軍用機にて日本に上陸。

その後、最高裁判所長官の田中耕太郎氏・岸信介氏・福田赳夫氏・矢次一夫氏・木内信胤氏・金山政英氏・寺田佳子氏・橋本明氏・木内孝氏等々、非常に多くの人物に「日本国」と「韓国」(以下、日韓と記載)の潤滑油となる逸材と見込まれ今日を迎える、と解釈しております。

私も(大変恐縮な事とは存じますが)それら諸先輩方々の想いと同じくして、国際平和・東アジア平和、それを実現する前の隣国との平和、という想いで、崔書勉先生の日本におけるサポートの一部を微力ながらお手伝いさせて戴いております。

崔書勉先生こそが、日韓の双方にまたがり、記録の調査をされながら、双方の長所・短所を六〇年にわたり深く把握された本物の「潤滑油」となれる唯一無二の人物、と感じております。

●「誠信の交わり」:
「朝鮮外交心得」にあり、「誠」を話し、「信」じ合う心を基本とする。江戸時代からは、双方が平穏となろうと心がけ、「商い」ができる関係(膨大な銀の流通)をお互いに長続きさせるにあたり、そのように言動してゆけば「搾取」し合う関係とは正反対な関係となる。
信頼に足る貿易相手であればより大きな商い(物々交換)も可能となってゆく。

日韓談話室の勉強会にて、日韓の長所・短所を確認しあい、腹を割って本音を語り始めた時、(すでにそのような発言がありますが) 更に本格的に「誠信の交わり」が機能を始め出し、その先にこそ日韓の平和、そして東アジアの平和、その先の国際平和、へと拡大してゆければ素晴らしいことです。

「誠信の交わり」は、江戸時代中期の儒学者、そして日・中・韓の交渉役となった雨森芳洲氏(あめのもりほうしゅう)が辿り着いた結論、「朝鮮外交心得」『交隣提醒』(こうりんていせい)の基本方針にあたる。 

日本国内においても「誠信」とはならない事態が起こるものです。しかし隣国同士だからこそ、言葉の壁があるからこそ、疑われない・疑わない関係の構築が基本の方針であるべき、と雨森芳洲氏は言及し、そして、
・「外交は、常に故事先例が重んじられ、先例がやがて慣習となり、さらに “法 ”という形に定着」する。
・「いつ、だれが、どのように処理されたかの “記録 ”」を執る。
・「交渉事は圧力や技術に頼るのではなく、よりどころとなる確かな史料をもって臨むべき」と説いている。

江戸時代、朝鮮国王の外交使節団通信使(朝鮮通信使)、毎回およそ四〇〇~五〇〇名が十二回にわたり来日し、「使行録」・「通信使記録」(対馬藩宗家文書)等、様々な言動を大量な「記録」として蓄積し、ルール化した。
「江戸時代の方針であった、とのことが朝鮮通信使の記録から読み取れる」と、歴史学先生方のご教示にあった。
そのためにも私共が、現存する記録、「倭館」や「通信使関係」等を真正に媒体変換し、後世への記録の継承が重要となる。

 ※ 私は「記録の保存・媒体変換」が本業であり、三十数年から大学の
   歴史学先生方にご交流を戴いております。
   本文中の歴史記述は歴史研究者ではない私の「聞きかじり」「付け焼刃」
   が多いことを 何卒ご容赦ください。

●隣国ゆえのお互いの悲劇:

★ 三~六世紀:
邪馬台国の卑弥呼氏は、三世紀魏王朝から親魏倭王の金印を受け、「冊封体制」を拒絶しなかった。
日本はその体制に付かず離れずに、中国大陸との国交・貿易の円滑化を図っていた。
七世紀 唐の「冊封体制」下にて「朝貢貿易」でバランスを取っていた韓国内(高句麗・新羅・百済等)であったが、そのバランスが崩れ、「唐と新羅」の連合軍が「百済」を滅ぼす。
百済の遺臣達が来日し、「百済復興」のため、そして日本に在る「余豊璋」を百済王に復活させるための援軍を乞われ、唐の南下を歓迎しない日本はそれを請ける形となる。日本軍は百済軍よりも多い数万に及ぶ援軍となり、多くの船舶を韓国に向かわせて百済とともに、「唐・新羅」の連合軍を相手とする「白村江の戦い」となる。

当時「唐」は、日本の遣唐使を受け入れて文化の交流・文明の伝授等を指導戴いていた。日本は唐への恩恵を感じながらも、「百済」とともに「唐と新羅」連合軍に刃向う形となり、多くの死傷者を出し、そして惨敗する。

★文永・弘安の役:
の国難。大国「モンゴル軍」とその先陣となった朝鮮高麗軍による日本への侵略。対馬や壱岐など北九州が被害。
奇遇にも二度の台風(寒冷前線説)に助けられるが、防御に着いていた多くの「御家人」等は、従来とは違った戦い方ながらも勇敢に戦ったが その報償に恵まれず、それらの不満により鎌倉幕府の崩壊、日本国内の「大きな戦」へと繋がってゆく。

★文禄・慶長の役:
大国「明」から、豊臣秀吉氏へ「冊封体制」下に入ることの督促、それらなどが起因となった「唐入り」(明への戦い)。
明に攻入るため、朝鮮王朝へ支援の要請。当然に拒絶される。豊臣連合軍は釜山より明を目指して韓国内を北上するが、「明」に到達できないまま韓国地域内での戦いが続く。
平壌まで北上した豊臣軍約一万五千人は、迎え撃つために南下する「明」の四万人以上の軍勢にて劣勢へ。
豊臣秀吉氏死去に伴い退陣。豊臣政権後の徳川政権時代に「朝鮮征伐」という言葉が誕生する。

★鎖国:
スペイン帝国等の当時西欧先進諸国による、全世界への早い者勝ちの植民地争奪競争において、極東アジアにある明国・韓国・日本等は、あまりに遠隔地であった為、西欧からの大人数での軍艦の移動による「侵略」からどうにか免れることが出来ていた。

 しかし徳川幕府は、他国との「通商関係」は必要とし、政策として主に中国・韓国・琉球・オランダ(キリスト教の布教の禁止を約束できたため)との貿易に制御する「鎖国」を実現した。

★幕末:
オランダの国力衰退、そして「鎖国」の解除を求める米国・ロシア・英国・仏国等の日本への進出。
当時日本は、中国(清)の強大な動員力・軍事力は全世界に通ずるもの、と太古の昔より敬意をはらっていたが、驚くことにアヘン戦争にて清は英国に敗退し、西欧の「侵略のやり方」を見せつけられ、日本国内に海外列強諸国の「脅威論」が高まる。

そしてペリー艦隊の大砲の「恫喝」に国内は騒然となる。「徳川幕府」は米国からの強硬な交渉で不利とならぬよう粘ったが、「開港」と不平等な「条約」、それらの一部分を許容させられ、国内に「尊王攘夷」を掲げる「討幕団体」が多勢と成る。

  ※ 一方庶民は「黒船」を見んとの好奇心が、危機感を上回る多くの
    見学者が絶えず、「異船見物無用」の立て看板が出る程に。

「討幕団体」と「徳川幕府」の「双方」へ、厖大な武器が 英・仏国等から大量に流入・販売。幕府の大政奉還後にも、南北戦争の中古銃等、インディアンを撤退させたスプリングフィールド・マスケット銃等の販売が続くことと成る。
日本国内の「金・銀」に群がる海外列強諸国の「武力」にて開国せざるを得ず、「パクス・トクガワーナ」が終焉させられる。

★明治期から:
その後も自国自立の維持、その先の東アジアの平和・世界秩序の維持を明治天皇も(世界はひとつの家族)公言されつつ、日清戦争・日露戦争・(統治:台湾・韓国)・日中戦争・大東亜戦争へ、と開国以降は国外からの大きなうねりに流されてきた。

★終戦後の日本:
戦勝国・中国等からの戦争の「責任の追及」に対して可能な限り穏便に実行してきた。 開戦の当初、【Remember Pearl Harbor】(なんと卑怯な奇襲攻撃。パール・ハーバーの恨みを忘れるな!)と米国は世界中に宣伝・周知させられ、「黄禍論」の脅威の排除(排日移民の徹底管理)、その実行のため、東アジアにおいて共有圏の構築に励む日本国に対し、米国はこれを機にダウンフォール作戦(日本本土上陸作戦:全滅作戦)(米国世論一部にあった)に向けて対戦開始。

ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、パール・ハーバーへの奇襲攻撃の第一報に「歓喜した」との記録がある。
「大義名分」を手にする事ができた米国は、遠慮会釈無く完全に勝ち組と成れる対日戦争の参加券を得て、好景気に沸く。

戦後において・・開戦の「正当性」を日本人は主張しなかった。
昭和天皇陛下に敬意を抱き、その「戦争責任」を厳しく問わなかったダグラス・マッカーサー元帥に対し、何らプラスとはならない。・・と日本国民の多くがそう判断したと想像できる。
そして現実として
日本は、日本国憲法の「改正」が成され、「非核三原則」が国是と成り、他国を侵略する「軍隊を持たない」と公言することと成り、「日米安全保障条約」を締結する形と成り、米国の「軍事基地」の設置(日本国内各地に)される事と成り、世界一大量殺戮兵器を抱える米国の「軍事力」に日本自体がガードされる立場と、成って行く。

米国は、民主主義国家の同盟国でありつつ共産主義大国ロシアへの最前線エリア、と日・韓の位置を重要視している。
今の日本人の「平和感」は、国内に設置された米軍基地等のロケットの「方向」が日本国内では無い為である。「方向」が、日本国内の主要首都に変更される事が絶対に無いよう国内与党等が・目配り・気配り・思いやり を絶やすことはない。

終戦当時の日本人は、自ら食べてゆくため・生き残った家族の生活のため・そして焼き尽くされた各都市の復興のため、「エコノミック・アニマル」と揶揄される程 寝る間も惜しむように働いている。(働く事に生きがいを見い出しながら)

そうして「培い」・「生まれた」厖大な「技術力」・「国益」を、東アジア諸国のODA等・米国等へ提供してゆきながら「東アジアの平和」・「自国の安全」・「国際平和」の維持に、可能な限り尽くしている。

★人種差別:
その「撤廃」を国際連盟時代以前から、日本は率先して主張し続けている。そして戦後、世界中の人種差別者が少なくなったのか? それとも「報道規制」がされているのか? 日本人の被害の情報も、話題となる情報も、少ない。

終戦後の米国は、ロシア(共産主義の超大国)と正面から向き合わねばならない。
米国に内在している「人種差別」の意識は、政府内各派閥において票数等、他にも大きく影響しかねない解決が困難と思える根本の問題である。民主主義国家であるため民主的に選挙(多数決)にて人種差別の「有・無」の決定をすべきであるが、昨今までの米国の多くの政治家はその是・非を選挙にてわざわざ問わないようにしている、ように感じる。

西欧のキリスト教信仰者の一部に「神に似せた白人だけが人間」、と思わせる言いまわし、そして有色人種はその分だけ動物に近いとの差別がある、と聞く。伝達のミスであると思えるが、それはその「教え」を享ける側の解釈の問題である。

「肌の色」の差別に「理性」は無い。
「理性」に目覚めれば、神様の意図に近づこうとする「人の道」を歩める。
国際平和に貢献した人物が「尊敬」され、報われる、TVやWEB等を通して益々世界でそう評価されてゆく未来となろう。
国際平和への貢献に、「逆行」する言動の人が「差別」されることが「道理」である。

「人種差別」を推奨する人達を、世界の人々が「尊敬」をすることは無く、理性ある人からもそう判断されてしまう。

幕末以降、明治・大正・昭和・平成・これからも、世界中の様々な出来事の根幹に、大なり小なり「人種差別」の価値観が有る事は、世界中の七十%以上の有色人種と逆行し、その摩擦は時を得てでも「次の戦い」へと必ず繋がってしまう。

●極東平和・東洋平和:
と、伊藤博文氏と安重根氏の目的は「東アジアの平和」、と共通していた。 しかし、日本の初代内閣総理大臣 伊藤博文氏が、他国民から射殺された。

伊籐博文氏は尊王攘夷の「志士」として働き、「海外」にも学び、「民主主義」の始動(憲法発布)等 日本の「近代国家」への発展に大きく貢献した初代 内閣総理大臣(第五・七・十代も務める)である。
伊藤博文氏はロシアの「南下政策」、東アジア・日本への進出を阻止しようと「奮迅」する人物であった。

閔妃氏と三浦梧楼氏等もそうであるが、「被害者」と「加害者」(談話を諦めた)となった事は、歴史上恥ずべき事である。

私は自国の立場からのみで無く、第三者の視点から見ようと試みるとき、「大きな歴史の流れ」のなかにおいては
「双方」が「被害者」であり「双方」が「加害者」でもある、と思える。

その後、初代内閣総理大臣と高宗の妃をお互いに殺戮された相手国民である「日・韓」、そして大東亜共栄圏の成立に協力する「台湾」、そして西欧植民地支配からの独立を望む「東アジア諸国」、と共に大東亜戦争を各地域で展開する。

結果、多くの東アジア諸国が西欧の植民地からの脱却、自主自立・解放へと主張し、実現へと繋げてゆく事ができた。

しかし、途中日本側は、「暗号解読技術」と「軍需物資」の双方で米国に劣り、無条件降伏へと行き着く。

「歴史に “IF ” をつけて現実と比較する事」は無意味である。しかし万が一
・ミッドウェイ海戦にて、日本側の「暗号文」が解読されていなかったら、それにより、
・米国本土への空爆(一部分でも)。それ故に拡大する米国内反戦運動に乗じ、優位な状態で停戦協定が結べたら、又は
・日本から、米国への、世界への、「停戦交渉」が早い段階で受け入れられていたら。

韓国民の日本国民への国民感情、そして東アジア平和への感情、世界平和への感情、は現在と同じであろうか?
韓国が「南・北」と分断させられず、二分する争いに巻き込まれずに済むことが出来たか?
ともに、「黄禍論」の排除、有色人種の非植民地化運動への道を、
伊藤博文氏と安重根氏がともに目指した東アジア平和への道を、
その「王道」を、「日・韓・台等 中国含」で協力し合いながら、ゆくゆく「世界の平和」へと先導することが出来たと思える。

●崔書勉先生曰く:
「殴った方は忘れるが 殴られた方は忘れないものだっ!」 と。
日韓談話室勉強会 二次会の席において、私たち日韓談話室メンバー(多くが日本人)に時折厳しく言われる。
韓国人側から見る日本人側への大きな「恨」をその都度強烈に感じる。その「恨」は何に起因しているのか?
そして、人として逆の立場となればどうであろうか? と毎々考えさせられる機会を戴く。

●お互いの民族の立場:
に、日韓は立てるのか? 「経験」・「価値観」・「教育・指導」が同じでは無いことは、非常に大きな「溝」であろう。

《日本人の生存地域》は: 【自然が主な相手】、地震・台風が多発し、自然との闘いから逃げられない地域。
しかし島国である分、欧米列強諸国の軍艦や大砲等の技術の進歩と反比例してそれら強靭な国々からの「服従の催促」を歴史を遡る程に未然に防げた。 アジア大陸極東の「島国」という好条件であったため、日本国全体が他民族に武力で入り込まれ牛耳られる、という経験は縄文民族と弥生民族の交代? 以来、運よく昭和二十年まで皆無であった。

《韓国人の生存地域》は: 【人間が主な相手】、アジア大陸に繋がる半島のために、たえず地続きの隣接地から攻め入ろうとする巨大な戦闘集団の直撃・侵略。そして大軍相手の、有利とはなり難い「交渉」、それによって維持ができる地域住民の生命の維持と生活の安定であった。

「島国」の日本は自国内の群雄割拠「内紛」、領地争奪の戦争においては、城主の「首」の取り合い、その為の下工作・駆け引きにて、戦争の勝敗を「即」決断できやすい、という「内情」、そして 敗軍の部下・敗軍の地域住民などが、勝軍によって皆殺しにされるなどの事例が多くは無い、という「内情」、があった。しかし「宗教」が絡む弾圧・戦争は強硬となり易かった。

 ※ 日本国内では、敵対した人間を「殺し合う」チェス方式とは違い、
   持駒として「活かし合う」日本将棋方式が主流。

日本の国民はそれら日本国内独自の有り難い「内情」を予測し、それにある程度甘んじる事が出来た。   
しかし、

●災害の均衡:
神様があるとすれば、各国の「幸運」と「不幸」(災い)の均衡を保つように、宿命とされたか?
そう思えるほど、日本は世界トップクラスの「地震」被害国であり、かつ「台風」の通り道である。
あまりに多発する地震・台風により、数え切れぬ人命が奪われ、この凄まじい「災い」が未来永劫に続く。

 ※「地震」の比較: 【約 八十倍】M3以上の地震数/年間 (日本約七百回/年:韓国 約九回/年)・・・WEB情報
 ※「台風」の通り道・直下に日本列島がある。(毎年 春・夏・秋)・・・巨大な台風も多く直撃「凄絶」な生存地域である。

私自身、「天災」の少ない国が羨ましい気持ち、は当然にあるが、此処に住む人間に課せられた天からの「宿題」である。

【天が相手】ゆえに天命により「何時死ぬ」かの予測が出来無い。
頻繁に起こる災害、その「被害者」の惨劇に共感しつつ、
「死」と向き合う日々。 達観せざるを得ない「心」の状態。
天災を「被った人」、生き残った人同士で助け合い慈しみ合う「心」。 
助けて戴いた「義理」を他に返そう・果そうとする「心」。
「後悔」の少ない生き方の実践を心がけ、
そこからは必然と 茶道・華道・書道など、鍛錬して「心」を究める「道」を好む。
座禅に親しみ、「物欲」を超越した「わび」・「さび」・「いき」、の
世界を静観、感受して憧れ、
それらを美的理念へと昇華してゆく「雅」の「域」・・・ 個人差こそあれ それらを自己流に感じている。

●戦争も災害:
戦争は本来、人災なのではあるが「災害」の一つと捉える。終戦日である八月十五日(実際は敗戦後も含めて)に至るまで、日本国民と在日等の諸外国人とでうけた被害は、世界に類の無い「地獄」であった。
日本列島の焦土化、主要な都市等に大雨のようにバラ撒かれた焼夷弾、二回に及ぶ原子爆弾の投下。
それらの空の下には数千万人の、普通の人間の「生活」が在った。

私の父が十四歳の時、神戸市内 自宅近辺に落下した焼夷弾にカバーをかぶせて対処した、との武勇伝。そして
焼夷弾にて町中が焼き尽くされ、死につつある人・多くの死体が転がり、最初は歩けないほど怖く、恐ろしかった、
が、直ぐに慣れた。と母から伝え聞く。(父は戦争時の恐ろしい現実を、私達子供に直接話すことはほとんど無かった)

昭和ヒトケタ生れ(父・母)は、神戸市・福岡市への焼夷弾の大雨の下、多くの親戚・知人達が無差別に焼き殺され、
死ぬも地獄・生きるも地獄の中、「鬼畜米英!」と敵国をこころから憎み、恨みとおした。
 ※ 戦後、それに対して「恨む」ことを止めている、と思える言葉があった ・・・。

マッカーサー元帥による、
昭和天皇陛下への賞賛、民主主義の先陣となり「社会貢献した人間が報われる仕組み」の後押し、「餓死者を出さない政策」への協力、そして「戦争放棄の実現を試みる日本」を応援、などのためであろう。

・・・「仕打ち」に対する「仕返し」は、時を経てでもその「仕返し」に繋がり、「心に晴れ間が無い地獄」・・・  と。

日本人は「天災」に鍛えられ続けたDNAの継承により、災害に耐える・潔く諦める傾向があり、「改善」に歩む力が強い人物が多い、と。・・・ そして、軍人の暴走を止められなかったこと事態をも、各軍人のその時の
様々な立場や都合によって
自然・必然のなりゆきなのであろうと、あえて「災害」と捉えて「次へ」進む人間を造りあげている、と。・・・
私は、身近な日本人を見ても、日本人の「記録」を顧みても、「不屈」・「勤勉」・「前向」かつ「楽観的」な傾向を強く感じる。

●ルールの作成:
「島国」の安全性を古くから享受できた日本。反して、地震・台風等の「天災」の直接被害が非常に多い。
大陸に繋がっている他の諸国に比べて日本人は「人災」に対する甘え・猶予があり、その分 危機管理意識の「不足」に繋がっていると思える。
どうにかなる・話せばわかる、という経験値が多く、良いにつけ悪いにつけ、最後には「お天道さまの決するままに」、と。

島国の日本人と、大陸に繋がる他の多くの国民と、お互いが解り合える心情となれるのか?
不安である。「生存地域」・「経験」が大きく異なれば、「価値観」・「教育内容」も大きく異なってしまう。

【相手国の立場】にお互いが立て無い、のであればどうしたら良いか?
今まで・現状は: 価値感・宗教の異なる世界各国の政治家方・官僚・有識者方が協議の場において、「無知の罪」を中傷し合いながら、五十歩百歩の双方の「歴史作文」の優位性を主張しあい、自国の不利を隠しながら、「大量殺戮兵器」をチラつかせつつ、利益を盗み・奪いあう。  
終止符を、それに打つ為には必ずいつかは「談話」(話し合い)に辿り着く。EU一部分にて成功していると感じるが、先ずは、お互いの現状までの「歴史」、そして今までの「感情」、「本音」を思いっ切りぶつけあう機会が必要。

ルールとしては、松岡洋右氏が国連を脱退・退席のような態度の禁止。「逃げない」「逃がさない」ルールの作成が必要。
そのルールとしなければ、戦争を「故意」に起こして、お金に成る・国際的立場が優位と成るべく企む組織・国があれば、まんまとそれらの期待どおりとなり、なすがままと成ろう。
「戦争」ほど、国家間の「格差」を「新た」に生じさせる行為は無い。それに「勝利」した国ほど、資金的にも、経済的にも、軍事的にも、完全に「優位」となり、「敗退」した国は、その「真逆」に追い込まれる。

「勝てば官軍」。「記録」さえ都合良く改ざん・消去する事が繰り返されてきた? 公文書管理を誠実に行える国は理想である。
(現状)今、そのときを各人所有の携帯端末等で「即」電子映像化、各サーバーに分散管理、同時公開することが可能である。
勝利した国が全世界のサーバー等全てを管理下としない限り、記録の改ざんや消去が事実上出来にくい時代となっている。

過去の世界中の多くの戦争は、
【強気を挫き弱きを助く】 や 【義を見てせざるは勇無きなり】 など、
日本人が非常に好む「価値観」とは、「真逆」が多い。

 ※ 立場が強く横暴な人の言いなりには成らず、弱く正直な人を助けよう・勇気を持って正義を通そう、との心意気を賛美。
特に江戸時代の武士的心性であり、士・農・工・商 等の多くが好んだ「格言」である。
幕府側においても、その感覚の対処を行っていた様子が、とても多く伺える。
(例)安政大地震の直後、「御救小屋」の設立、一週間で二十万人以上の「御救米」(炊出し)等、幕府主導の「弱者の救済」、その事前準備と迅速な対処。「管理する側・される側」、双方にある武士的心性。「パクス・トクガワーナ」の所以でもあろう。

戦争実行の「大義名分」を必須とするのは戦争を仕掛ける側。自国の国民、世界中の人々、に対して開戦に値する説明責任の「放棄」はあり得ない。叉、子子孫孫と後世に遺すに恥じない自分達の「正義」を証明する為の「記録」となる。

日本が起こした「柳条湖事件」の場合、その事件の発生の真偽において、途中より日本側の「大義名分」は「嘘」と解かる。強硬となった日本軍により、世界から理解されていた日本国民の「正直さ」の評価が、一瞬で喪失した。
「自分達の都合さえ良ければ〝嘘〟も有り」という国・軍事体制であれば、どこの国もまともに付き合えなくなり、
どの国からも賛同されない。「正義」の「嘘」ほど国の信頼を無くしてしまうものはない。
その嘘が、巧みに「策略」されれば されるほどに、その策略・嘘が明らかとなった時には、信頼がゼロだけではすまない事態に陥る。日本は、自らの嘘により究極まで追い込まれていった経験者である。

今後、各国の知恵者が集り、過去の戦の凄惨さの共有を「記録映像」で同時に確認すべき。定期的な世界中への放送も必要。
そして開戦の理由に至った理由も確認しあい、その意識の有る中において「平和」にむかう意識を共有し、「戦う」ことなく平和となるには話し合う「談話」しか無い、と否応なく気が付くこととなろう。 

その「談話」の「方法」を導きだしあう為の「談話」を始めることに気が付くであろう。
その中にて目標が必要、と気が付けば ・軍需産業から未来産業に! ・自然を保護しよう!等々、様々な「目標」の設定に必ず辿り着く。

ルールには・「嘘の禁止!」等、そしてゆくゆくは各国が望む・利益の調整・分担の決定! 等それらを「談話」して決めてゆくこと、と気付く。
そして、その「談話」の「定期的」開催を繰り返し、その都度「記録」を重ねる。それら記録、多くの事例から作成された新たな「ルール」は、東アジアのみでなく世界の「法律」へ、と繋がってゆく土台となろう。

●お金の跡を追う:
「 Follow the money 」 【歴史を追う時にはお金の流れを追えば真実が見える】 とは、米国スタンフォード大学フーヴァー研究所 指導者の「格言」。そして
「本当の歴史は必ずしも美しくなく、むしろ醜い話で満たされている。しかし、それを知る事でわれわれはより強く、本当の意味で今の世界を知り、自分自身を知ることができる」と続く。

温故知新:「歴史」を遡り、日本の、そして世界の、お金(金銀財宝・資産・資源や各有価証券等)の集中がいったい「何処」にされてきたのか? その「事実」を追うことである。

そして醜い事実であるが、大量殺戮兵器を多く作成する地域、そして所有する国が、そうでは無い各国に、恫喝まがいに不利な商談等を仕掛けてくる、「理性」とは離れた「弱肉強食」レベルの思考から抜け出せない事例が未だに多々ある。

それらを変えられない、私も含めたほとんどの人間は、その分だけ「勇気」「知恵」が少なく「機会」を掴む力が弱い未熟な人物であろう。
しかし絶対に諦めず、自分が・今・誰と・何を言動すべきか、を代議士・官僚等に提案し続け、自らが「力」となって貢献してゆくべきであり、気が付いた本気の人が動き出す、それを「伝染」させながら動き出すことが大事。

各国の最優秀の知恵者・人格者であってほしい各国トップ方々が「世界の平和」とは「逆」の言動が未だ多く在る。
今こそ、「お金」と「武器」に対して、俯瞰・長期の視点に立てる本物の知恵者が「誰なのか」、その活躍が世界を変える。
そして「戦争」の目的となる「お金」に対する各国の価値基準の「相互理解」。
そのための教材(共有情報)も必要である。
今までの日本は、世界との商いの有り方・金銭的価値感の歩調を言い現す 過去から言い伝わる商いの「心」が、若干なりとも共有を頂き、現在の日本がその分だけ理解されていると思える。
今後は更に
・「悪銭 身につかず」(Soon gotten soon spent)、や
・「働かざる者 食うべからず」(He who does not work, neither shall he eat.)(不健康方の例外はある)
・石田梅岩氏が明確化した「商いの基本」、日本版 CSR(Corporate Social Responsibility)と言われる。
などの「お金」の価値観の相互理解のための「共有の情報」。

世界中で、それぞれの「厳格な商い」の環境にて極められた人間同士であれば、ルールに誠実な商人である事は間違いなく、「同類」の価値観が多く共有できる、と思える。

各国にある商いの在り方は、民主主義・共産主義等は問わず、それらの公開を様々な外国語で「共有化」がなされることが、ルールに基づいた平和な「商いの基本」の再確認に、必要となる。
軍備をバックにした「脅し取る金銭」は、「商いの道」では無く、しっかりと永続的な価値観の共有ができて、初めて戦争原因を「回避」できる可能性が、その分だけ高まろう。

そして 叉、世界各国の今後の「経済基盤」、そのバランスの調整を要す。
日本も韓国も、世界中の様々な国も、他の国からのお金の争奪戦に振り回されにくいよう、各国の長所」を更に活かした「経済基盤」の再構築が急がれる。

 ※ 某学者の進言:
「今後、日本を良好に維持させる為に、自国の【情報管理】を強固に、徹底した【自国防衛設備】を供えつつ、【食料自給】を上げ、【新資源の開発】・【開発特許の充実】を進め、他国からの外圧でお金の流れを歪められにくい方向へ」とある。今の私達の世代が本気で実現しなければならない。

●「お天道様はいつも見ている」:
神様・仏様・ご先祖様はいつでも見ている。神様を裏切らない、ご先祖様・家族・に恥じないように生きなさい。との寸分の「猶予」も無い、非常に厳しい「教え」である。
私の父の世代にも、私にも、先祖から代々そのように「教え」られており、もちろん私は自分の子供たちに対しても、ものごころがつく前からそのように教える。

世界中にも似たような「教え」は多々あると思う。が、先日アジア大陸の小学校教室、その授業風景を映したテレビ番組にて、先生から小学校生徒への「言動」。
「人から騙されないようにしなさい!」(と厳しい口調)、真剣に頷く小学生達。「教育内容」に驚く。私達日本では、
「人を騙さない」(嘘をついてはいけません)「正直・素直・礼儀」を重んじる、との当然の「教え」である。

日本の「教え」の大本には、「神様、仏様、ご先祖様はいつでも見守ってくれている」(助けてくれる、では無い)等であり、それは、他人が自分の周りに居ても居なくても、いつでもどこでも、神様に、そして自らに、「恥じない心」で在る事、自分勝手や我がままを「恥じ入る心」を幼きころから語り続けてゆく。「誠信の交わり」に必要な「自己の確立」であろう。

●本音・建前:
「【解読が難解】な宗教の教えは、私は理解不能、理解する時間を優先できません」と。そして余裕の時間が少しでもあれば、「仕事」で社会貢献する事が自分の役割故にその勉強と効率化等に励み、そして時々趣味や旅行も楽しみたい、と。
「お天道様はいつも見ている」という「教え」はそのような「本音」をも、素直に判断させることに繋がってくる。

それは同時に「建前」の必要性を生じる。
 ※「智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ
   兎角に人の世は住みにくい」
と夏目漱石氏が小説「草枕」の冒頭にて表現した「本音」。

「自主自立」、自らの「本音」を導き出す思いを「沈黙は金」とするのか。又は「発言」をしなければならない立場の人の場合、何の目的で? だれに対し? そして時と場所と場合(TPO)により、知恵を要すことではあるが、表現の工夫が必要となる発言となろう。
「本音」を歪めて話すのでは無く、TPOにて説明の仕方を広く考えて行うこととなる。兎角住みにくい世、において「本音」を話すには、思いやり・知恵を大いに要するがゆえに「建前」を要す。
発言しなければならない立場の人、発言不足とはできない方の場合ほど「建前」と「方便」を上手く使いこなす能力が高い。
冗談か?本気か? すら判断できぬよう、時にチグハグに話し、笑いのオチを計算しつつ、そして聞く側の度量に判断を任そうとする知恵者、政治家や組織の長などに時折居られる。

崔書勉先生の発するお言葉には心根の優しさも含め 時に天才的な建前論者の「域」、そのとても高い処、と感じる。
私はこの「超人」に勝る人に会えない。身近に居られる嬉しさ! それと同時に「日本人にも」在るはず、と信じている。

●日本の「戸締り」:
家の戸締り習慣の話。 当社は一九六二年に父が創業。その会社(東京都新宿区)に一九八五年入社した私は二年後に農家の空き倉庫(千葉県佐倉市)を当社の中古機材置き場へ、との交渉を安価に成立できた。
「お中元・お歳暮」を毎回、倉庫に隣接する大家さんのご自宅へ持参。
しかし、お中元の時期はご自宅にご不在が多く、私は縁側から靴を脱いで仏間に上がり、仏壇前に沢山並べられた他のお中元やお香典の脇に当社のお中元と私の名刺を置いて帰る、という習慣でした。

 ※ 私の親戚の自宅:福岡県八女市も自宅不在でも玄関・縁側も
   空けっぱなしであった。

一九九〇年頃、佐倉市倉庫の大家さん曰く
「家の戸締りをすることなど普段はあまりなかった。でも最近、近所で急に盗みが多くなってね」 との事。お中元・お歳暮のご挨拶は宅配便に変える事となりました。

一九九〇年代頃から、急に日本国民の「品格」が極端に落ちたのか?それとも価値観の異なる人物が急増したのか? 原因は、地元警察署に問い 犯人の詳細の正直な回答を得られれば、明確に出来るでしょう。

●価値観の遠くない国 韓国:
「森松さんは、平家と地方豪族(九州)の血流に繋がる、と聞いたけど何のご縁で日韓関係に携わっているの?」
というような質問をうけた事がありました。
桓武(平家)天皇の生母、高野新笠は百済の武寧王のご子孫との説、平成天皇陛下のご発言にもあり、私はその分韓国は近い国、という思いが高くなったと言えるのかもしれません。しかし、それ以前に
崔書勉先生とは、三十数年前仕事を通してのご縁が始まり、以降、そのお人柄に大きく惹かれ、「この人の喜ぶ顔がみたい」との想いが私の根底に出来たのです。なぜそう想ったか? は未だに不明なのです。

韓国と日本の「常識と良識」は他国と違いあまり遠くはないとも感じる。たとえ遠くても近くても、たえず双方が東アジアの平和、国際平和を諦めず、世界中が今後どのように環境が変化しようと、隣国であるからこそ、「誠信の交り」の基本を持って、さらに「談話」を・・・と願う。

●意識の変革(気付き):
「お天道様・神様に恥じない」、その価値観が今後世界中に共有できてゆけば、賢い人間へと大きく成長できた言動が全世界にて増えてゆけるでしょう。

しかし現実は…万一、他の国から日本に対して戦争を仕掛けられ、相手を攻撃せねば家族も仲間も殺戮されるという環境となれば、戦争回避主義者の私の心が、「鬼」と化すかもしれない。

「自分達の幸せ」の「達」の「広さ」「幅」を自分も含めてひとりひとりが大きく広げるべきであり、各人物の「幅」の狭さが、歴史上止む事の無い「戦争」という化け物の各人の心の中の「正体」かもしれない。

【SF作家 星新一氏の物語】: 核爆発(実験)が止まらない地球人。
そこに恐竜のように大きな宇宙人が地球を襲来。世界中の各国で協力し合って宇宙人退治。
退治に成功し、その後 地球人同士が争わなくなる、というストーリー。(原文では)「いままでの原水爆実験など、実にばかばかしいことだった。そのようなくだらないことは、今後二度としないことにしよう」 とある。共通の「敵」ができた瞬間の「意識の変革」。同じ地球人同士で憎み合い戦っていることの愚かさへの「気付き」。
人間の素直な心「本音」、と「気付き」の面白さは、人間の「無限の可能性」をも気付かせてくれる。  まず日韓にて、

・「そろそろ、 本音の話を、しようじゃないか」 
     ・・・ お互いに、「嘘」を控えめに、足を引っ張る事少なく、冷静に、謝罪し、許し、感謝し、協力し合い。

・「もうそろそろ、 お互いが報われる新しいルールを、造ろうじゃないか」 
     ・・・ お互いに、長所短所を確認し、「誠信の交わり」を基本に。利益分配のルールの「談話」を。

・「談話のルールを、 日韓の基本のルールとして成功させ、
        ゆくゆくは国際平和のルールの礎となるように
     ・・・ してゆこうじゃないか」、と。

現実的には: 誠のみを「談話」しようと試みることは理想ではあるが、自国の不利を覚悟して話しましょう、 などと
バカ正直に縛り合うルールでは、お互いに「談話」が長続きできないでしょう。長続きさせるには、忘れたり・とぼけたりには、お互いに真剣に突っ込まない。そして黙して語らずはあえて有り。しかし、絶対に「嘘」は禁止。・・・ 商いの世界においても信頼が「ゼロ」となる。
そしてお釈迦様は、高い目的遂行、そして他者を陥れない、のであれば「方便」としてその「嘘」を黙認の範囲としている。「本音」を語り「方便」を笑いながら許し合い、お互いに可能な限り双方の利益を維持する等、助け合うための「談話」。

お互いに見栄やプライドは横に置き、恥ずかしがらずに「本音」で頼み、怒り、等を吐露し合い、「平和」の大切さ、その目的に、気付き、それが継承できれば日韓が平和に向かう 世界への「先陣」となれよう。

●何から始める:
世界中の未来を担う少年・少女が学ぶ各国の歴史教科書。
その「公開と比較」が出来得る情報化から。
世界の各国政府が許可している歴史教科書の共有。その内容や解釈の多くの「差異」は当然、と覚悟しつつ。
各国の歴史教科書の「比較情報」は必要不可欠な共有されるべき情報であり、今まで大規模になされていない事、広く周知されていない事、が不思議である。

最初に公言する。「二〇二〇年四月から教科書を収集する。」と。
そして、歴史を学べる各国教科書の小・中・高等学校の原本を、現金で個々からでも収集して、翻訳。「日本語・韓国語・英語・ロシア語・中国語・スペイン語等々」、世界各外国語に翻訳して公開する、と。

WEB上にて「公開」され、誰でも・何処でも「比較」ができ得るしくみをつくる。それこそが「談話」「国際平和」に向かう事前の「相互理解」のために必要不可欠な「情報源」となろう、・・・とは、日韓談話室メンバーの言葉にもあった。

そして、その実現は有志さえいれば困難なことでは無いであろうが、進んでいる兆しを見ることができない。
「誰が」・「いつまで」・「どのように収集」・「何のフォーマット」・「WEBで公開」には、難しい問題は無い。
しかし、「誰の責任で?」・「いくらで?」・「勝手に公開して良いのか?」「セキュリティは?」と、なると急に困難となり得る。
この「情報の共有」は国際平和の構築のために、いつか、誰か、が遅かれ早かれやらざるを得ない「必須課題」。

「十数億円をかけてでも私がやろう」という資金は、今の私には持ち合わせ無く、日韓談話室等において、その第一歩がスタート出来ないか?「崔書勉先生方にお伺いを!」と考える昨今です。

世界中の歴史教科書の内容の「統一」となれば、「談話」の習慣も無いまま、いきなり目標として各国への連絡をすれば、その段階で実現はほぼ不可能となろう。
しかし、昨今使われている各国の歴史教科書の「公開と比較」となれば、有志において、現在使用中の歴史教科書の収集とWEB公開は、「予算」と「覚悟」が整えば、可能である。

 ※ 「国際平和」に向けて、先ずは各国の歴史教科書情報の「公開と比較」こそが、本当の「スタート」である。

●右・左:
日本国民が、病気・事故・ケガ・被災、困窮や年金受給等、何かしら困った時、「相談」に乗ってくれる所は?
他の国では無い。
今まで、ご縁が有って自分が生まれて籍を置く日本において、義務教育により勉学に励める機会を戴き、多くの内需拡大予算により、社会インフラの構築と維持・仕事を行える機会 等を作り、自分達が働いたお金で各税金を正当に支払う。
それらの循環で「経済」の活性化・「平和」が維持されている。
国民全体で、3Kの仕事をも厭わずに「国益」を支え、それを他国から奪い取られないように覚悟して言動する時。
諸外国の頭脳・肉体労働者等、日本国内に受け入れよとの力があるが、犯罪を予防する体制の強制、選挙権・法令の見直しが急務。
そして、将来国内の景気状況等により一方的に祖国に返せるか等 国内外に多くの問題の種を撒くことに成り得る。


 ※ 今こそ、日本人の健康な老齢者・主婦・身障者・ニート等が、この国を救う「力」となる時、であろう。
私は時折、知人の与・野党の代議士の各政策勉強会に参加する。
その会の終盤にある各代議士への「質問」、その内容は、ああしてほしい こうしてほしい との「要求」ばかりが発言される。
日本国民は、要求のみを国・政府に言及するだけではなく、「産 ・官 ・ 学 ・民」が、ともに国益を上げるために、そして、ゆくゆくは「国際貢献」(外貨の獲得)へ、と繋げられる仕組みへの協力を提案し、実現してゆかねばならない。
「要求」から「提案」へ、自らが参画(頭を使い、汗を惜しまず)協力し合える手法を持った「提案書」を考えて提出し、それを実現してくれる代議士へ投票すべきである。真剣に対応してくれる代議士がどうしても居ないのであれば、自ら立候補、又は思いの強い仲間を推薦してでも、代議士の立場に近づく準備をすべきである。

戦後より、「国益」という言葉を使用するだけで日本においては「右翼・タカ派」では? と偏見の目でみられる風潮が有る。
そして「国歌・君が代」を唄うことを拒む国民がいることも、世界に誇れないことである。
自分の国の国歌を歌おうとしない人、「国益」という言葉自体を使う人を嫌がる人。本来は、日本人の過去の過ちを克服するように自分達の日本を一緒に作ってゆこう、と心がけるべき。しかし、そう心がけない人、国の不満のみをわざわざ「公」に広める人。 太古の昔であっても昨今であっても、日本のより良い将来を共に作れない人である。
そのような人であれば、外国で暮らして日本以上の「理不尽」がどのくらいあるのか、海外に出て見える日本の長所・短所を感じ、それでも日本人を放棄しないのであれば、「国益」をあげながら更に理想の国へとなるよう、自らが政府にしっかりと「提案書」を提出すべき。賛同する人達が多くなれば理想の社会への「力」となる。
自分の住む国に対して、不満のみの人・より良い国造りを諦めた人、であれば世界のどの国に行こうと何も改善はできない。

崔書勉先生は、記録の徹底調査をされつつ、「韓国」の「国益」の追求を言動されている、そして支える国は違うが、私は、記録の管理を徹底しつつ、「日本」の「国益」の追求を言動する。レベルは違いすぎるが方向は同じである。

私は高校生ごろから右でも左でもなく、「中庸」の精神を重視しているが、大学時代に話し合う機会があった「右翼学生」、「左翼学生」からは、長く話すほどに「純粋」さを「双方」から感じた。
私利私欲にある自分の勉強と健康の為、親友や恋人をつくる為の貴重な大学生活。それは大切な人格形成・成長の時間である。
しかし右左の「双方」は、私利私欲の時間だけではなく、大学の体制・国・世界の体制を憂いて言動している。一般の学生よりも、社会を「良く」しようとする積極的な意気込みを感じる。右・左にしろ、自分勝手だけでは無い熱き人物の「証明」である。

人格形成・成長には大いに有意義な時間・経験となろう。そして一般の学生が、私利私欲から離れた「双方」を、「右翼・左翼」と名付けるのは勝手ではあるが、「異端児扱い」して「交わることすら放棄」する学生が多く有った。それらの学生達は、「何に」「誰に」「どのように」教育・影響された視点であるのか? そのことに「恐怖」を感じる。

●昨今:
米国と北朝鮮の間にて開戦への熱が上下している。「戦争」となると右・左や一般学生の話をしているどころでは無い。
東アジアの平和が一気に崩壊させられる方向へ動く可能性があり、東アジアに在る国々こそが一番避けたい戦争である。
特に、日本と韓国はそれを全く望んでおらず、戦争を避ける方法を考え、言動しなければならない。
戦争の「準備」「防御」の為に、見え難い所にて様々な組織・国の多くが直接・間接的にその「大商い」に関わってしまう。
日本国内も例外では無く、COCOM違反にならない部品製造等の企業も知らずに戦闘関連の機材に使用される。
そして、日本は自国防衛の為の大金を支払う側として「商い」に参加させられることと成る。
歴史を顧みると、開戦前・後によって、一番「お金」を得る組織・国が、一番の戦争の「加害者」となり易い。
「加害者」の組織・国に対し、戦争の実行の事前に、日本も含めた世界の国々が勇気を出して想いを「本音」で話し合うべき。
 ※ 今後の「人類の未来」が定まってゆく。

●父・私・子供:
と、三代にわたり崔書勉先生に関わらせて戴いております。
父親から引き継いだ私の仕事は
「記録を後世に遺す」という内容であり、私は仕事を通して三十数年前に崔書勉先生とのご縁が始まりました。
日韓談話室メンバーの方々とのご縁も不思議なものです。もし前世があるとするならば、「不幸を幸福へ」と言動する同じような活動をしていたのでしょう。メンバーに関わりのある皆様方との多くの出会いに感激しております。
そして、メンバーの方々には、若年で小生意気な私の一面も諦めて? 戴いており、心より感謝申しあげます。
日韓談話室 勉強会の内容の多くは、とても視野が広く、深い「記録調査」に基づき、視点が高い。
「国際平和」の前の「東洋平和」、その事前の「日韓の理解・平和」、その為の「談話」を諦めない日韓談話室への参加ゆえか、
崔書勉先生方からの「感電・伝染」のためか、ときに
「自分がやらねば誰がやる」との感覚が起こる不思議な環境でもあります。
私の、普通の人間、普通の生活環境、普通のいち中小企業の経営者、からは全くかけ離れた視点へ。
そして本業の「記録の管理」の仕事が、将来如何に日韓・東アジア平和・国際平和への「必要性」を増すと、その重要性の高さを、日韓談話室 崔書勉先生を囲む会にて何十回となく確認する事ができました。
更に自分の・自分達のノウハウで出来得る事がある、と必然と自分独自の視点による試行錯誤の時間が、年々増えてくる。

自分の人生は、「一生」であるが、全く足りない。「自分がやりたいこと・自分がやるべきこと」が数十と湧いてくる。
急ぎ対応しても、「五生」以上の時間がかかる。しかし、それを理解・応援してくれる人が少しずつ現れるものである。

●怪物の力:
 ※【世に生を得るは事を為すにあり】とは幕末 薩長同盟等で尽力した坂本龍馬氏が後世に遺した言葉。
  (人は事を成し遂げる使命を受けて生まれてきた)

自分如き人間が日々その言葉を体感しながらの「会社・社会貢献」「国益の増大」「日韓・東アジアの平和」「国際貢献」へ。
そして、「ノーベル賞」や「オリンピック」のような大会は無いのですが、例えば「国際社会貢献大会」ができれば、私はその立案・企画・主催・参画・実行・選手・サポーター・審査・応援者、でもあろう。
崔書勉先生の「凄み」ある人生、「使命」を全うする強烈な「力」。 自分の視点の変化、そして微力ながらも私の「言動」するパワーは、その大いなる「力」の影響に他ならない。 

文末となりますが
本日を迎える崔書勉先生、日本に上陸され六〇周年間の様々なお勉め・お勤め・お努め、を称へつつ、
感謝とお祝いを申しあげます。誰も真似が出来ない「生涯」(日韓両国に精通した生涯)の一端に私なども関わらせて戴きながら、そして多くの不可能を可能とされる「日韓外交の怪物」崔書勉。先生のその

「怪物」なりを間近で感じさせて戴いていることは、私の生涯のなによりの「宝」です。
この超人の大いなる「力」は、私だけでなく崔書勉先生をとりまく人間に、既に「感電・伝染」しております。
「こころより感謝申しあげます」。

六〇年 韓国と日本国、未来の世界構築の為のお努め、本日五月二十七日にその大きな節目を迎えられました事、
「まことにおめでとうございます」。

今日のお祝いを心から称えつつ 晴天に通ずるような歓喜に満ちた思いで
日本上陸六十年目の祝賀会 そのお手伝いを兼ねて 参加をさせて戴きます。 感謝

平成二十九年 (2017年) 五月二十七日      森松義喬 拝





『崔書勉先生と私』
 (崔院長日本上陸六〇周年に寄せて)
 山下 靖典

 私共が敬愛してやまない崔書勉院長が、今年二〇一七年五月で、日本上陸六〇周年の大きな節目を迎えられるという。
半世紀もの長きにわたり日韓間を行き来しながら両国の間を、様々な意匠の糸でつないでこられたのであった。
無論その中には我々には見えていない糸があったかもしれない。

 院長の行動はあまりにも幅も奥行きも広く、かつ深く全容を知るというのは容易なことではないのである。
院長に教えていただいた事柄は余りにも多い。
思い出すだけでも、安重根と日韓関係、竹島(独島)問題の歴史と日韓関係、日韓関係の歴史とその裏面史、日韓条約交渉の歴史とその裏側、韓国とモンゴル関係ーー挙げてみれば枚挙にいとまがない。

 だが山下にとってこうした知識、情報はもちろん重要かつ貴重だったが、それ以上に院長から授かったのは日韓関係に関わった様々な人々、中でも韓国外交部の皆さん方をご紹介いただいたことである。
その方々は、韓国外交部の中でも韓日関係に携わってきた方々であった。院長は折に触れて東京の駐日大使館や韓国外交部本省の方々をご紹介下さった。

 そもそも山下が院長の知遇を得たのは一九八七年のことであった。
この年、山下は日韓記者交流の訪韓団の一員としてはじめてソウルを訪問することになった。
これは両国の政府ベースで相互に記者を招待し、相互理解を深めようとの企画であった。
確か、一週間程度の日程であったと思う。
その間、浦項製鉄所、三十八度線地帯の見学、韓国外相との会見、政府高官による幾つかのブリーフィング、などが盛り沢山に設営されていた。

 出発前、政治部先輩の西村多聞さんから「韓国に行くのなら、この方に是非会ってお話を聞いておきなさい」
と紹介されたのが院長であった。
赤坂辺の韓国料理屋だったような気がする。
西村さんと院長は相当親しい様子で、しばしばお酒の席を一緒にしておられるようであった。
記者交流旅行が順調に進んでいた日程半ば頃、ソウルのホテルに院長から電話があった。
 「今ソウルにいるので、今晩会いたい」との事。連れて行かれたのは、漢江近くにある「真味」という韓国式の本格料亭であった。
しかも、部屋には当時の韓国外交部のゴンビョンヒョン・アジア局長も座っておられた。山下は日本側記者団の中の一人に過ぎない。院長は東京からわざわざソウルに戻り、山下を懇意なゴン局長に引き合わせて下さったのである。
誠に有り難いことであった。ゴン局長は後に駐中国大使を務められた。院長は山下と世代の近い韓国外交官の当時の若手もご紹介下さった。主な方のお名前を記させて頂くと
 キムソグウさん(後に統一院次官)、
 ユビョンウさん(後アジア局長、大阪総領事)、
 シンカクスさん(外交部次官、駐日大使)
院長はこの皆さんから見て外交部の先輩というわけではなかったが、とにかく敬愛、尊敬されていた。

 外交官出身ではないが、今韓国で共に民主党所属の国会議員となって活躍しているカンチャンイルさん(済州島選出)も院長のご縁で知り合った。
カンさんが東大大学院博士課程に留学中、奥様が院長の主宰する東京韓国研究院(当時港区)にお勤めだった。
この研究院に山下が顔を出した際、院長がカンさんを紹介下さった。
日韓関係史が専門のカンさんは韓国に帰国後、太田市の大学で教えていたが、元々学生運動家でもあったこともあり、郷里の済州島から国会議員に当選した。
カンさんのご縁あり山下は済州島を合計六・七回訪れている。

 山下は院長のお陰で、皆さんと今日に至るまで親しくお付き合いさせて頂き、なおかつ貴重な知識、情報も得させて頂いたのであった。
こうして見ると、山下の受けた恩は限りなく大きにも拘らず、そのご恩になんらお返しできていないのはお恥ずかしい限りである。

 これから先、恐らくご恩返しの機会があるとは想定しにくいし、又山下にはその力も能力もない。
これからも院長に付き従って、そのお言葉を聴くことで、日韓の関わりを理解する手がかりとさせていただきたいものである。



 


『崔書勉先生と私』
 (崔書勉先生と金山大使)
 社会福祉法人心の家族 理事長
 韓国木浦名誉市民
 韓国江南大学社会福祉名誉博士
 韓国全州大学文学名誉博士 
 尹 基(田内 基)

 生きているときに志を共にする友はいる。しかし、死後も日韓親善の志を共にしてお墓を隣に作るという話は聞いたことがない。
崔書勉先生は、韓国京畿道坡州にあるカトリック墓地の中にある崔先生一家の墓地に金山大使のお墓を作り、守っておられる。

 二〇一三年、私は崔書勉先生と一緒に、韓国京畿道坡州にある故金山政英駐韓日本大使の墓地を訪ねた。
崔先生は金山大使の話を聞かせてくれた。
大使は生前、日本にとって最も大切な国は米国や中国ではなく韓国であるとわれ、出世の道を捨て過酷と日本のために働くようになったこと。そして、崔先生は私にこう言った。

「尹君、あなたは両性主義者だ。」

突然の言葉に、私は驚き、笑ってしまった。先生の言う両性とは、姓名の姓だ。一行も皆、一緒に笑った。
「そうではないか?あなたは韓国姓「尹」、日本姓「田内」を持っている。だから両姓ではないか?」
崔先生は笑わずに続けた。
「私は先が短い。これからは、あなたがこの墓を守るんだ。」
そうだ、金山大使は共生福祉財団の理事長を引き受け、韓国の家なき子らを愛してくださった日本人の一人で、恩人である。

 ある日、別所吾郎駐韓日本大使に、先輩が眠っているお墓に行きましょうとお誘いし墓地に案内した。
そばには崔先生のご母堂のお墓があり、そこには、次のように書かれている。

「洪マリアの霊前にて」
 一生涯を苦難の中にすごされた貴方
 どんな痛みの峠に立っても
 ひたすら一人息子だけを見守って
 微笑んでくださった
 その人品は唯ただ優しく善良と褒め讃えられてはいたが
 実は世間のあらゆる辛酸の荒波を嘗めてこられた
 その中をここまで育ててくださった貴方の恩恵
 いくら報いても
 決して報いきれない貴方の恩恵
 逝かれた今
 誰にそれを報いればよいのか
 この肉も骨もそのすべてが貴方が下さったもの
 貴方を思うと道行くときは立ち止まり
 寝ていても目が覚めます
 冥福を祈るこの心
 笑って受けてください

  一九七三年四月二十二日 一周忌に  一人息子 崔


 共生園の子どもたちは墓前に歌を捧げ、崔先生も別所大使も、韓日親善協会の金守漢先生も秋圭昊駐英大使も、感動した。
最近、韓国と日本の感情のもつれが尋常ではない。金山大使が生きておられたら、崔書勉先生はどんな話をされるだろう。



 

『崔書勉先生と私』
 渡井 幹子

 「崔先生と私」というテーマを与えられた時、私が考えたことは九〇才の誕生日を迎えられ日韓談話室一同、他 多数の方々のご参加により、盛大な祝宴を開催することができ、崔先生始め、全員で喜びを分かちあえた点である。
私にとっては生涯忘れることのない、感謝の瞬間であった。

崔先生の学識深く魅力溢れる講話を拝聴しながら例えばソウル南山の安重根義士記念館を訪れた時のことを想い出している。
安重根義士記念館に収められている安重根直筆の高能書から「四書三経」、詩文や、きわめて雄渾な遺墨の数々を鑑賞した時、漢字の家に生れ、強い意志と秀でた頭脳を持ち、高い学問をきわめている安重根の姿を垣間見た思いであった。

 金鍾泌元国務総理先生と日本の総理との会談「大平会談」の内容は特別な思いで拝聴させていただいたことなどが挙げられる。
今日まで成長することができたことを「ありがとうございます。」
と心からの御礼を申し述べたいと思っている。
 そこで崔先生にまねの出来ることはないかと頭をめぐらせたところ、あった。それは私の健康管理の努力目標と天からの計らいにもよるが、九〇才迄生きるということだ。

 そんな時、良い機会なので、自分自身について少し振り返って見ようと思い、手許にあった私の母校、都立小山台高校の卒業生が書き記した文集を繙いてみたところ、私が書き綴った、「強く生きる」という文面が目に留まり、読み返してみると崔先生との会話の中、仲間との間で、常日頃話している言葉の数々だった。

例えば
「自分にはもちろん、他人に対しても私が表現しなければ、物事の内容を伝えることができない。」
「何事も話さなければ分らない。」
「目の前に起っていることをクリアーしないと隣には行けない。」
「目の前に起ってくる諸々の現象は偶然ではなく、ほとんど必然(Inevitable)である。」
「人生のテーマは生き残りの戦略(survival)だと思って私は生きている。」
「他人がどう思っているかなんてことに関心を向けては絶対にいけない。」
「過去と他人の心は変えることはできない。
 貴方自身が変わってみませんか?
 自分自身が変わらなければいけない。」
「意思があれば、何事も成し与わん(where there is a will,there is a way.)。」

 父親からの言葉「仁を見て法を説け。」母親からは「念ずれば華ひらく」ということを忘れない様に、等々、常日頃の言葉の数々は高校生のときから考え、使っていたことに気づき、びっくりしているところである。

 進学校に学びながら、進学せず、就職した時の気持は、文集の中にあるが、現在迄、数多い方々に如何にお世話になったかを思い起こす。
その第一。三井銀行(現三井住友銀行)に入行した時より、橋本宇一先生(東京大学名誉教授)御存命の間、賜ったご恩は決して忘れることはない。入行時、保証人となって下さり、身にあまるほどの後立てを橋本先生よりいただきながら、営業店勤務・本部勤務の経験を活かし、人事部研修所でインストラクターの仕事を全うし、停年退職(六〇才)まで勤務できたことは、本当に有難いことだった。

 立ち留まって一人の人間として考えてみると、目に見えない橋本先生の力の大きさを感じ、そのお陰で安心して仕事に取り組めていたのだと、唯々感謝の気持でいっぱいになっている。

 後輩を指導する立場にあったので、江木武彦先生の話し方教室に通い、「話は力だ!」ということを仕込まれた。
話しは心で話すのだと徹底的に仕込まれたことは今に生きていると思っている。
他にもカウンセリング、交流分析などを学べたことも良かったことに数えあげられる。

 今、私があるのは、諸先輩のお導きの賜物と思っている。
高邁な崔先生と、縁あってからは、世界情勢を始め、日韓関係、歴史問題など数えあげれば、切りのない興味深いご講話を拝聴し、成長を続けさせていただいている。
前に述べた通り、私は高い目標をかかげているので、崔先生のご長命を祈り、今後のご指導を賜りたく願っている。

 更には、日韓談話室の益々の繁栄を期待している。

追伸一、
目に見えない過去に縁のあった人同志は今世で必ず出逢うことのように思える。
例えば、橋本宇一先生は橋本明氏の父上のご兄弟、お兄様でいらっしゃり、息子鐵司氏は私の高校生時代の同級生であったという事実は、一見不思議であるが、それは事実であり、現実のことである。

追伸二、
心が痛く、気になることが最後になってしまったが崔先生とのご縁は日韓談話室世話人寺田佳子氏と友人であったことから始まっている。
思い出があり過ぎペンを走らせる勇気を持てないでいる。
しかし五十五周年記念寄稿集にも書いたが、朴槿恵大統領にソウル国会内の午餐会に招かれた貴重な体験は、世話人・橋本明氏、寺田佳子氏のお陰である。
朴槿恵前大統領には、明るく微笑みをたたえ、澄んだ瞳で、あの時交わした「政治と結婚する」という信念を全うする人生を送っていただき度いと思料している。
さらに常日頃、陰で一番お世話をされている森松義喬氏に心からの感謝を申し述べたいと思う。
寺田佳子さんもよくそう話されていた。
記念寄稿集の出版は並大抵のことではやり遂げられないと考えるが、森松氏はいつも黙々と成功させている。
橋本明世話人始め崔先生を囲む会、日韓談話室メンバー全員の協力の賜物であることももちろん忘れてはいない。
囲む会皆様、本当にありがとうございます。御礼迄申し上げます。





特別寄稿(二)

 ※本文のみ『韓国研究の魁 崔書勉』の追加変更部分である。
   校正文の掲載を橋本明様からご依頼:

『韓国研究の魁 崔書勉』 P.130 9行目より抜粋
(記事中、正しい肩書きが必要となる為)


 橋本 明

「大統領閣下、明瞭な措置を乞う」
 このような短文電報を金山は朴大統領に送った。直訴状であった。
国の責任者として最高の対応がとれるのは唯一大統領だけである。
自分が真摯に願っている親善増大への願いを朴大統領は日頃から汲み取っている、と金山は確信していたからこそこの手段に訴えた。
 七三年八月の金大中事件は朝鮮総連に唆かされた文世光による陸英修暗殺事件につながり、さらに中央情報部長金載圭が朴大統領を暗殺するという一連の悲劇的な諸事件の発端を為すものではなかったろうか。
 朴大統領が老いを深めている。後継者作りが急務となると発言した尹必銷首都防衛司令官が朴正熙の激怒を招いたのはつい先日の出来事だった。
大統領の政敵金大中に一泡ふかせば名誉挽回につながるだろうと夢想した李厚洛が企んだ拉致事件だったのである。
 金大中は神戸から出港した工作船に乗せられ何度も日本海に突き落とされる危険にさらされた。米軍用機による威嚇などで殺し損ねたというべきだろう。
 金載圭中央情報部長は、チビで朴正熙の腹心とされる車智テツ(三ずいに徹の作り)警護室長の策略で左遷させられると疑惑の念を募らせていたといわれる。
車のために自分が権力中枢から追われるのではないのか。
 崔書勉にどうして金載圭は大罪を犯すにいたったのか、質問した。
「私が知っていることは、金は噂を気にし、しかも病んでいたということだ。何処かの軍司令官に発令されるという噂を耳にし、前途に絶望感を抱いた。そのようなことが起こる前に始末をつけてしまおうと考えたようだ」
 大統領と会食中、金は朴正熙と相伴にあずかった車の二人をピストルで射殺した。彼はその後国防部に逮捕された。   以上