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 寄稿集: 『 崔書勉先生と私 』

                      



 刊行の辞    橋本 明


 崔書勉滞日三十年記念文集をひもどくと刊行の辞を寄せた木内信胤さんは「これから何を為しえるか、自分はなにを為すべきか」という崔さんの自問に対して、「多くの日本人が理解するのでなくては、何をなされようともうまくゆきますまい」と答えている。崔さんと日韓関係に幸があるよう祈ってのお言葉であったが、最近の両国は表向きどうしようもないほど凍っている。
 崔さんも私どもも心を新たに日韓友好の実を挙げる道を真摯に求めなければ、と思う。崔さんを迎えて開催している日韓談話室は日本人にとっては学びの場であり、ご本人にはくつろぎと癒しの貴重な機会であろう。寺田佳子さんという稀有な世話人の尽力無しには味わえない特別な空間が、日本に存在している事実を、今後も大切にしたい。
 崔書勉博士を語るとき、特にソウルを訪ねた折必ず金鐘泌さんに迎えられ、食事を挟みながら親しく会っていただいたことに感謝している。時に重要人物紹介では国会文教委員会委員長だった陸寅修さん、あるいは朴槿恵さんと相手は変わったけれども、二度国務総理を勤められた金鐘泌さんの重みは辺りを払う趣があった。
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 小人数の談論を好まれた金元総理が二〇〇二年十一月十一日来日されたとき、一九六二年十一月十二日東京で行われた 「金・大平会談」 の真実を明らかにした。崔書勉博士の努力と献身がなければ決して知りえること叶わなかった歴史的証言に触れて、記録としておきたい。

 キューバ危機の折アメリカにいた金中央情報部長だが、国家再建最高会議議長朴正熙から対日請求権問題を解決してこいといわれており、帰途日本に寄った。事前に「八割くらいもらえればいいでしょう」という金部長の腹案を飲んでくれたことから、夜八時ころから外務大臣室で三時間半大平正芳外相と話し合った。
「一体日本はどれくらい韓国に提供できるのか言ってくれ」、金鐘泌にせまられた大平は「ウーとかアー」とか唸っているばかり。ついに、訪欧に出かけた総理が八千万ドルという線を出していったと口にした。「そんな金額ではダメ」「いやこれ以上は出せない」とせめぎあった末豊臣秀吉の人生観「鳴かぬなら鳴かせてみよう」を持ち出した。「貴方はどこからそのような言葉を習ったのか」と驚きの表情を見せた大平はやや和み、軍人が近代化のために必死で立ち上がった軍事革命の内容に耳を傾け始めた。
「一生懸命国を立て直す。そのためにはアメリカでなく日本が一つ協力してもらいたい。日韓は歴史上いろいろあったが、地球に存続する限り互いに隣同士で仲良くしなければならない。そういう運命を背負っている両国だが日本は私の調べでは外貨預金を十四億ドル持っている。みんなくれとは言わない。韓国のような後進国が経済建設するために何が必要か、兄貴分の日本は必要な経験も知識もやり方も持っている。八千万ドルではだめだ」金は言った。大平は「ホウ、ホウ」と熊みたいに室内を歩き出す。座りなおした大平は「どうか聞かしてくれ。ずばり解決できる条件を君の口から言ってくれ」そう重ねた。  
日本に来る機中はじいていた数字を金鐘泌が明らかにしたのはこの時点であった。「無償三億、対外協力基金から有償二億。さらにケースバイケースで輸銀から一億ドルプラスアルファ」そうしたら大平はまた立ち上がり思い悩んだあとコーヒーを出してきた。
「私も腹を据えた。どんなに非難を受けても貴方の熱意に動かされた。一緒にこの問題を解決しよう。それでこういう具合に修正したらどうか」と逆提案した。「この無償を有償に、有償部分を無償に変えるわけにはいかないか。有償といってもほとんどタダですよ」

 国に戻れば売国奴呼ばわりされることは覚悟の上だったのだろう、金部長はある意味で大平に助け舟を出す。
日本側が請求権という言葉に反発していることを知ったとき、
 「私は韓国国会に請求権という表現をするが、貴方は経済協力といえばいいではないか」 と。

 二人はメモ用紙二枚を手にした。二人が書いたものは同文だが数字だけだった。3、2と。無償三億米ドル、海外協力基金から有償二億ドル、輸銀から一億ドル、さらにプラスアルファという枠を間違わないよう見せ合って確認し、それぞれ持ち帰るのだが、メモに記された数字は三億と二億だけだったのだ。十年間で毎年五千万ドルづつ支払うことで合意し輸銀融資を含めると八億ドルという概念がこの会談で固まった。当時韓国外相が米政府から借り出した国の運営資金は二千万ドルにすぎず、比較するととんでもない大きな金額だった。朴正熙大統領はこれを資金として工業化など近代化を緒につかせたのだった。

 私が直接メモった紙数はA四型でびっしり七枚に達する。歴史は人間がつむぎだすという事実を雄弁に物語る内容だ。それもこれも崔書勉さんのおかげであり、私たちがじかに学ぶことを得た日韓交流史の一例である。華々しく歴史を飾った政治、経済、学会、社会上の人物群像がこの世を去っていったなかで、崔書勉さんは不老不死の境地で健康な日々を一人送る。
 今後はただ存在していてくださればいい。健康で……。





 以下 アイウエオ順






 崔書勉先生と私 『崔書勉先生とのご縁』 
 公益財団法人 日韓文化交流基金 業務執行理事 阿部 孝哉


 崔書勉先生に最初にお会いしたのは、一九七三年頃、当時飯倉にあった韓国研究院に私の駐韓大使館在勤時の上司である故金山政英大使をお訪ねした時だったと記憶している。駐韓大使のポストを最後に退官され、崔先生と親交を深めることになった金山大使は、韓国研究院の一室に机を構えておられた。その後、同じカトリック信者として、金山大使は崔先生と深い絆で結ばれることになった。金山大使の墓所がソウル近郊の一山市のカトリック墓地にあるが、同墓地は崔先生のご両親とご自身の墓所であるが、その敷地に崔先生が日韓の有志から献金を募って盟友金山政英の墓を建てたものである。同墓所には、崔先生と何回か訪問したが、二〇〇〇年の夏には日韓談話室の方々ともご一緒した。
 崔先生とは、ソウル、釜山、瀋陽といった私の外交官としての任地で度々お会いする機会を得たが、二〇〇〇年代初頭のソウル在勤時は、東京在住であった崔先生が来られると、宿舎のホテルに呼ばれ、今は亡き作家韓雲史先生と三人で花札をするというのが決まったパターンであった。人生の大先輩である両先生と花札をしながら雑談に興じるのは、なかなか得難い耳学問の機会でもあり、忘れがたい思い出であるが、授業料と思って真剣でなかったせいなのか、花札は何時も負けていたという記憶がある。
 私の瀋陽在勤時には、来訪された崔先生を同僚の韓国総領事と共に瀋陽郊外の撫順市までお連れして満州料理をご一緒したのも懐かしい思い出であるが、崔先生は満洲料理についても該博な知識をもっておられ、その含蓄のあるお話に感じ入ったものである。崔先生の知識の豊かさと記憶力の良さは、夙に衆人の知るところであり、凡夫の羨むところでもあるが、私が崔先生を師父として仰ぐ訳は、何よりも他人に対して分け隔てなく接するその態度にある。韓国人は日本人に比べ、打ち解けた態度で他人に接する性格を持っているとはいえ、私を含め若輩者に対しても誠心で接してくれる崔先生のような人物には、未だかってお目にかかったことはない。
 私が座右の銘としている崔先生の言葉があるが、日韓関係を考察する時には、日本や韓国の立ち位置よりも一段高い場所から見渡してみる姿勢が必要であるという忠言である。折に触れその言葉を反芻している。崔先生とご縁をもてたことに感謝。 頓首    











 崔書勉先生と私    日本文化大学学長 大森 義夫


 崔先生との最初の出会いは少なくとも四半世紀は遡ると思うのだが、はっきり思い出せない。当時私は総理官邸で内閣情報調査室長をつとめていた。安重根の生涯を訪ねる旅でハルピンまでお伴したほど崔先生の熱心な尊崇者である落合一秀さんの勉強会で初めてお会いしたようにも記憶しているが、いずれにせよ日韓談話室では濃密な、かつ時空間を超えた歴史的な、そして現代史の貴重な教えを数々いただいている。
 これも、いつだったか明確でないが落合さんのアレンジで小川剛太郎ご夫妻たちと韓国旅行したことも印象に残っている。崔先生のご長男にもお会いしたが、三十八度線の安保ツアーをした後ソウルに戻って韓国国会を見学した。崔先生に引率されて国会議長を表敬したのだが、時間がなかったこともあって議長との意見交換はすべて日本語で行われた。対日感情が厳しい韓国での、しかも国会議長室での出来事だっただけに今想い起しても奇跡的だし、崔先生なしには全く起こりえないハプニングであったと思う。
 酒の席をふくめて崔先生のエピソードはいくらでもあるが一つだけ記すならば、ある時崔先生が「日本人の好きな歌が二つある」と言われた。一つは「海ゆかば」で、大伴家持の古詩に昭和十二年信時潔が曲をつけた。「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍・・・・・」と続く悲壮にして哀調を帯びた歌で確かに我々の心をうつ一曲である。
二曲目は「田原坂」であるという。「雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越せない田原坂・・・・・」と愛唱されているが、崔先生が尋常でないのは、この歌詞に誤りがあると指摘されたことだ。「西郷隆盛おいらの兄貴 国のためならオハラハー死ねと言うた」とあるが、西郷隆盛は「死ね」ではなく「死ぬ」と言うた、というのが崔先生の指摘である。確かに、国のためなら「死ぬ」と言うた、の方が大西郷のためにも西郷さんを慕う薩摩兵児のためにもピッタリくる。崔先生の見識に脱帽した。
 しかし、脱帽するだけでは不甲斐ないので私は言った。「先生、日本人の好きな歌はもう一つありますよ」と。「それは白虎隊の歌です」。「戦雲暗く日は落ちて、古城に月の影悲し、誰が吹く笛か知らねども、今宵名残りの白虎隊」と歌い、途中で「南鶴ヶ城を望めば、砲煙あがる・・・・・」と詩吟が入る。

 いま振り返ってみても、外国人である崔書勉先生とこういう会話を楽しめることは他では考えられない至福である。ひとえに崔先生の該博な知識による恩恵であるし、さらには
日本と韓国の間に共通する心のヒダというか心情基盤があって、それが歌とか情感に表出するのを崔先生が鋭く、しかしさりげなく我々に問題提起しておられるのだと思う。
日韓の架け橋としてというよりも、我々多くの「学徒」たちの変わらぬ先達として崔書勉先生にいつまでもご壮健にて学の道を探求されるよう心から希求する次第である。











 崔書勉先生と私 『日韓談話室にお世話になって』  奥原 徳太郎


 戦争が終わって私が台湾から還って暫く長野県で農業を手伝っていましたが、先輩にさそわれて出て来たころ、家内の兄も中国から還って参りました。そのころ市会議員をしているお寺の住職から、韓国の金谷君という私より五才位若い青年を預かっている。両親は国に還ったがミシンの修理をしながら大学に通っていると紹介され、兄と三人で兄の家に集まって夜遅くまで話をするようになりました。
 ミシンを売ってもそれは子供を預けるようなもので、大事に扱ってくれないと困ります、と言いながら近くを通ると寄っては調整してくれました。そして駅の近くにミシン店を経営するようになり、市会議員の媒酌で韓国の娘さんと結婚し、店も成績良く発展して行きましたが若くして病気に倒れてしまいました。韓国の心を教えてくれた良き友、また尊敬する友人を失った事は残念です。韓国の心を教えてくれた良き友人、彼こそ私たちに正しさを教えてくれたのに残念です。

 一九九六年十一月十二日(火)シヤルトルーズに於いて第一回目の日韓談話室が開催された時に私も嘉陽さんに誘われて参加させて戴きました。お見えになる方は崔書勉先生始め越智道雄先生や名前は聞いていたが、近寄りがたい方はかりでした。どうしょうと思いましたが思い切って早めに出掛け、あまり目立たない柱の蔭に座りました。崔先生が少し太りぎみの体で少し早めにお出でになって優しさのある様子でお見えになった時は来て良かったと思いました。以後休む事も無く成るべく出席させて戴きました。安重根義士の話は始めて聞きましたが、崔先生が安重根義士の業績を語る時は特別でした。ふと学徒出陣で兵隊に行き特攻機に乗ってアメリカの航空母艦に体当たりした友人の事を思い出しました。甥に連れられて韓国に旅行した時、資料館は時間が遅く入場出来ませんでしたが表に有る銅像をしばらく眺めて還りました。天を仰いで立つ姿は多くの人に平和の有り難さを語っているように思いました。
 六回目位までシヤルトルーズで開催されましたがその後はしばらく国際ビル八階の日本クラブで開催されました。その後又シヤルトルーズになり、最近は崔先生がお世話になっている東京さぬき倶楽部で開催されるようになりました。
 二〇一二年五月二十六日東京さぬき倶楽部で崔書勉先生の日本上陸五十五周年記念祝賀会が開催されました。パスポート無しに日本にきて大変な思いで過ごされたと思います。それにしても五十五年にもなる韓国と日本の為に随分苦労なさったと思います。崔先生、これからもお隣の国韓国と日本、そして世界の平和の為に元気でご活躍下さる事をお祈りいたします。崔先生の大きなお腹の中に一杯詰まった日韓親善と安重根義士の心、世界を飛び回って平和の有り難さを教えて下さった崔先生いつまでもお元気で。











 崔書勉先生と私 「『感電』させられ通しの十五年―その二」  
 二〇一二年十一月    落合 一秀


 崔書勉先生と初めてお会いしたのは何時のことだったか? 当時ある研究会を運営しており、一九九七年八月に、伊豆天城で三日間の合宿研修会を行うために、先生に講師をお願いに上がることになった。
 研修会の実行委員長をお願いしていた外務省の小川郷太郎審議官のご紹介を得て、六月のある初夏の陽の光がまぶしい昼下がり、狸穴の外交史料館(先生は当時赤坂在住、史料館は先生の研究室でもあった)に出向いたことを昨日のように印象深く覚えている。早速にその晩は先生に誘われて飲みに行った。
 「光陰矢の如し」、その時から早や十五年の歳月が経過した。

 研修会での先生の「歴史認識」と韓国の講話は、該博な知識と、史実に基づいた、具体的かつ極めて巧みな話術のお陰で、大いに盛り上がった。その後の先生を囲んだお酒が入った夜の歓談の場でも話は尽きることはなく、そして「韓国に行ってみよう」ということになった。

 韓国への旅は、崔先生をもったいなくも先導役に、六人の女性を含めた二十名のメンバーが参加し、十月の爽やかなソウル晴れの中、三日間の短い旅程ではあったが、韓国各界の高位級人士と親しく歓談の機会を得て、これ以上は望めない極めて密度の濃い、快適、かつ愉快な、実りの多い旅になった。
 日韓関係の歴史については、断片的な知識はあっても、一知半解の私にとっては、将に「眼から鱗が落ちる」とはこのことであった。

 崔先生のお話によれば、八世紀に編纂された「古事記」「日本書紀」は、三分の一が新羅にせよ百済にせよ韓国の話だそうで、「日本の研究をすることは韓国研究の始まり」とのこと。また、「文禄・慶長の役」「朝鮮通信使」「江華島条約」等の東アジアにおける歴史的意義も改めて理解できた。「史癖は佳癖」、歴史が好きなことは、良い趣味であり、歴史を学ぶことは人生を豊かにするそうだが、今更ながら、崔先生には、その意味からも大きな恩恵を受けたものだと痛感する。
 その後「日韓談話室」に参加させていただき、金鐘泌・金守漢・陸寅修・李東元先生等々の謦咳に接し、日韓関係の先達の方々から、現代韓国、朴政権時代の功罪等について、身近な視点からの生きた歴史を学ぶことができた。

 伊豆での研修会が終わった後のある日のこと、先生の親友、藤田義郎先生(元産経新聞論説委員)から呼び出しを受け、今までの崔先生との交友関係について、いろいろと面白いお話を長時間にわたり承った。別れ際に一九八八年発行の「崔書勉と私―崔書勉滞日三十年記念文集」を一冊いただいた。
 藤田先生は、その文集に崔先生との七三年の出会いから八八年までを「『感電』させられ通しの十五年」と書いておられる。その中で、朴大統領に崔先生と共に夕食に招かれた時、「隣りの大統領が滂沱たる涙で泣いていた、何という純粋な人なのか、云いようのない感動に打たれた。本当はそれを書きたかった。いずれ二回目の『崔書勉と私』が出るならば、其処に譲ることにする」とあった。残念ながら、藤田先生はその年の十二月に亡くなられてしまった。
 今回、二回目の「崔書勉と私」が二十四年振りに寺田佳子・森松義喬さん等のご尽力で発行する運びとなったが、藤田先生にはもう書いていただけないので、崔書勉先生には近い機会にこの時の逸話をお伺いしたいと思っている。
 私も藤田先生と同様に、崔先生には「『感電』させられ通しの十五年」であった。
 今になって考えると、藤田先生からは文集に仮託されて、引き継ぎをしていただいたような気もしている。

 一九九九年三月には、まだ春浅き北国を明治四十二年(一九〇九年)十月の伊藤博文枢密院議長の足跡を追って、韓国独立運動家安重根氏の命日(三月二十六日)を軸に、崔書勉先生のお伴をして旅をした。大連を経てハルビンの夜はひどく寒かった。ハルビン駅頭の伊藤候の暗殺現場、安重根氏が留置・取り調べを受けたハルビンの旧日本領事館地下室(今は安ホテル)、長春の満州国仮宮殿、安重根氏が刑死した旅順刑務所等を訪ねた。
 大連の昔からの重厚な大和ホテルでは、崔先生は伊藤候に扮し、ソファにどっしり座られて大分お酒を飲まれた。旅順では私が安重根氏に擬せられ、崔先生の官憲に捕縛された。崔先生は処を得て神出鬼没、寺田佳子・西垣正邦・白石允子さんと計五名の少人数の旅なので、各自自由に行動し大いに愉しんだ。最後は北京に飛び、権丙鉉韓国大使と歓談。当時の薄汚い夜汽車に揺られた過密な日程だったが、想えば皆若かった。
 次回は安重根氏の足跡を追ってウラジオストック経由でハルビンへ行こうということになったが、残念ながら未だに実現していない。

 崔先生の東京在住時には、先生の誕生日が四月なので、毎年のように誕生日を兼ねた花見の宴を、恰も年中行事のようにご一緒させていただいたことが、今では非常に貴重な日々として眼に浮かぶ。

 先生は、論語の言葉として、時折、次の言葉をあげられる。
   「務本 本立而道生」(本を努む 本立ちて道生ず)
 グローバリズム、リージョナリズム、ナショナリズム等が混在し、益々混沌に進みつつある世界において、何事にも根本を把握するよう努力すべきであり、根本のことをやっていれば、あとは自然に法は立つものだ、という意味である。崔書勉先生には、今後とも一層お元気で、広い視野からいろいろとご教示をいただきたいものと、心より念願している。











 崔書勉先生と私 『院長とのイスラエルでの忘れ得ぬ九日間』  
 木内 孝


 昭和五十四年四月二十四日(火)一四時一五分村松剛教授を団長とする我々十一人は、オランダ航空八六二便に乗り込み成田空港を飛び立った。この十一人のグループは、村松剛教授に父・木内信胤が「有志でイスラエルへ行こう。計画を立てて頂けないか」とお話して始まったと記憶している。その話を耳にされた崔書勉院長が参加を希望され、一回の下打ち合わせで九泊十日の計画が出来上がったようだ。その後、父・信胤が痛風を拗らせ飛行機の長旅は無理との残念な話になり、一名不参加で十一人に落ち着いた経緯があった。
 目的は中東イスラエル国で九日間を過ごすことだった。
十一人の若者は 1.村松剛教授 2.崔書勉院長 3.高橋正男   4.関野英夫   5.小山久美子
            6.丹羽春喜  7.大野俊三  8.藤島泰輔   9.青木一能   10.村松聡
           11.木内孝
出発の前夜、東京イスラエル大使館で大使主催の結団の夕べが催され、改めて十一名の仲間意識が醸成された。
 二十五日(水)早朝五時一五分ギリシャ・アテネに到着、空港での八時間の待ち時間に市内に繰り出し、活字で理解しているアテネの街を興味深く実地検証した。
同日一三時二五分TWA機でチョット名残惜しいアテネを発ち、一四時二〇分待望のテレアヴィヴに到着。空港内で地元産のオレンジ・ジュース、グレープフルーツ・ジュースがふんだんに振舞われるのに感激、「イスラエルは素敵だぞ!」の第一印象をシッカリ脳裏に焼き付けた。と思った瞬間、振り返って見ると壁に七年前の昭和四十七年に岡本公三等が残した弾痕が生々しくギョッとした。テレアヴィヴ市内のフォーラム・パレス近くのダン・ホテルに投宿。
 二十六日(木)はテレアヴィヴ大学を訪問、午後は労働党本部で要人と面談。宿泊は同じフォーラム・パレス近辺のアラジン・ホテル、段々アルコール摂取量が上がって来る。
 二十七日(金)メギッド丘を訪れた後ハイファ大学を訪問、校庭にエルサレムの町の正確な模型があって我々の興味を惹いた。山本七平さん(イザヤ・ベンダさん)とお会いして暫く立ち話、終って近郊のドルーズ村を訪れる。
 二十八日(土)北方約十キロ、海沿いの歴史的に名高いアッコを訪問、この地に監禁されていた最近まで実在していた著名な人名を見付け感慨無量。更に地中海沿いにレバノンとの国境まで足を伸ばし自然保護区ロシ・ハニングラを通り、待ちに待ったナザレに到着。三十一年前にシリアとの武力紛争で知られたダガ二アの地を訪問。宿泊は北ナザレのハットガーテン・ホテル。
 二十九日(日)レバノンとの国境沿いのメチューラは紛争の絶えない地域。柵を設け医療の手当てに当たって居る地帯を訪れ、ゴラン高原に向かう。昭和四十二年にシリアから獲得した戦略上の重要地点・ゴラン高原で戴く格別な味のワイン、この旅の頂点の一つ。
高原を下って聖書の話から最も発掘が盛んなジェリコに到着、エルサレムに向かうのは明日かと踊る胸を抑えてアリエル・ホテルに四日間チェック・イン。僕の同室は四晩共、崔書勉院長。四晩の実質睡眠時間は全く記憶がない。
 三十日(月)ナチのホロコースト慰霊の地を先ず訪問。その後、歴史の宝庫・エルサレムを縦横に歩き廻り、ヘブライ大学で数時間過ごす。正に忘れられない一日。
 一日(火)早朝三時半には出掛けなければならないので三時頃目を覚ますと、隣りのベッドに院長が寝てられない。ビックリして“いんちょう!”と大声を上げると、ベッドの向こう側からむっくり起き上がられて何事もなかったように悠然と着替えを済まされ、キリストの墓の前でのミサにあずかる為に二人で闇の中を出発。これはタイヘン貴重な体験。
酔眼朦朧だったが多くの体験を続けながらエルサレム南方のキリスト誕生の町ベツレヘムを訪問、更に忘れ得ぬ想い出が数多く誕生。と同時に飲酒量もうなぎ昇り。
 二日(水)ユダヤ人にとってローマと闘った歴史的な砦、マサダに登ったことは、この旅を更に印象付けた。まじかにユダヤ人の存亡をかけた争いの様子を心に描く。
マサダを下り、死海で泳ぎ、天から降って来るような大きな温泉の瀧に打たれ、エルサレムに戻る。
そして最後の酒宴。
 三日(木)早朝五時過ぎにエルサレムを発ち七時五〇分発のオリンピック航空でアテネに向かう。七時間半の待時間がアテネであったが、旅の疲れと飲み疲れ、巷に出て行ったお仲間が何人いたか?オランダ航空八六一便でドバイ・バンコック・マニラ経由で・・・
 四日(金)一九時五五分成田に帰還。楽しかった、よく飲んだ九泊十日の村松剛教授率いる十一人組は無事帰国した。想えば三十三年前のエネルギー溢れる体験!











 崔書勉先生と私 『出会いから十五年』    
 元拓殖大学副学長 草原 克豪


 はじめて崔書勉先生にお目にかかったのは一九九七年八月、「二十一世紀を考える会」という勉強会の夏期セミナーにおいてであった。当時は教科書問題や従軍慰安婦問題などが尾を引いていて、日韓関係はまだまだ正常化にはほど遠かった。韓国政府は日本の漫画、映画、音楽などの大衆文化に門戸を閉ざしたままで、両国間の交流も少なかった。そのような時に、崔先生が日韓関係の歴史について講義されたのである。私たちにとっては初めて聞くようなことばかり、というより、日頃あまり考えてもいなかったような視点からの講義であった。思えば自分自身、それまで仕事のうえで外国との接触が多く、外国生活も長かったが、どういうわけか韓国とだけはまったく縁がなかった。一番近い国なのに自分の頭のなかでは空白地帯であった。崔先生の講義を聴いて、これではいけないと痛感したものである。おそらく他の仲間たちも同じ思いだったに違いない。先生もその気配を察知されたのであろう。その直後に先生の発案で、週末を利用した二泊三日の韓国研修旅行が企画されることになり、十六名の仲間に四名の夫人を加えた二十名が参加した。
 わずか三日間とはいえ、この研修旅行は崔先生がすべて企画されただけに中身が濃く、自分にとっては世界観が変わるような貴重な体験であった。初日の歓迎昼食会では、金守漢国会議長が、二十世紀の歴史を振り返りながら日韓関係の重要性を説き、その中で「日韓関係がよくならなければ、それは時代の要請に対する怠慢であり、歴史への背反である」と述べたことに特に深い感銘を受けた。
 日本大使館における勉強会では、韓国のある大学が実施した世論調査の結果にショックを受けた。日、米、中、露、北の五カ国の中で日本は、最も親しくすべき国という項目では八%で五位、警戒すべき国では五十七%で一位、嫌いな国では六十五%で一位、信頼できる国では五%で五位、見習うべき国では六十%で一位だったという。嫌いだけれども見習うべき国だなんて、まるで分裂症ではないか。日本に対する大きな誤解があるとしか思われない。おそらく韓国政府による反日教育の結果であろう。
 韓国の人にはもっと実際の日本を知ってもらう必要がある。そのためには文化交流を盛んにしなければならない。そもそも公の場で日本語を使ってはいけないというのは心の鎖国ではないか。韓国側の対日文化規制を改めることが何よりも先決だと思わざるをえなかった。
 しかし、問題は韓国の側だけではない。日本側にも問題がある。自分も含めて日本人は韓国のことを知らなすぎる。特に近現代史についてあまりにも無知である。事実を客観的に見ようともしないで、ただ、戦前の日本は悪いことばかりしたという左翼の宣伝文句を鵜呑みにするだけの教育が行われてきた。このことは日本の歴史教育の大きな問題点だ。反日教育を受けた韓国人と歴史に無知な日本人とがいくら互いに交流を進めたとしても、健全な相互理解に結びつくとは思えない。韓国人も日本人も、どちらも偏見や思い込みに囚われることなく、きちんと過去の歴史を直視し、理解することが必要だ。だが、そのためには、まず自分自身が勉強しなければならない。こうした問題意識をもって研修旅行から帰国し、日韓談話室の会合にも参加させていただくようになったことに心から感謝している。
 その後、一九九九年に拓殖大学が創設百周年記念学生海外派遣事業として世界各地に学生を派遣した際には、私は自ら希望して韓国グループの団長を務め、二十名の学生を率いて韓国の大学を訪問することにした。この時は崔先生のお骨折りで、その前に日韓談話室の会合でもお目にかかっていた李東元先生のお世話になり、ソウルの国立墓地を訪問する機会にも恵まれた。左右に数十名の儀仗兵が直立不動の姿で並ぶ中を、正面奥の祭壇まで進み、二人の兵士が左右から抱える巨大な生花に私が手を添えて献花、そのあと団員一人ひとりが一輪ずつ献花、そして最後に私が焼香。さすがに緊張せざるをえなかった。そのあと音楽演奏、黙祷と続き、記帳簿に署名してから、広い墓地内をバスで見学し、李承晩大統領と朴正煕大統領の墓に焼香して墓地をあとにしたのである。
 あとになって、このような献花や焼香は特別のことで、通常は各国の大使級でなければできないということを聞かされた。このような光栄に浴することができたのは、崔先生と李東元先生のお陰であり、お二人にはお礼の申し上げようもない。もちろん学生たちにとっては一生忘れられない思い出となった。
 このあと学生派遣団は、李東元先生の母上が創設した東元学園、さらに先生が理事長をつとめる東元大学も訪問し、そこで李東元先生の歓迎を受けた。そこでは一九六五年当時外務長官として世論の反対をおしきって日韓条約を締結した李東元先生の教育者としての姿に触れることができて、改めて深い感動を覚えた。そういえば拓殖大学の発展の基礎を築いた第三代学長の後藤新平は、日韓条約締結当時の椎名悦三郎外務大臣の伯父にあたる人物だが、その彼も人材育成にはことのほか力を注いだ教育者でもあった。
 次の世代を担う子供たちの国際心を培ううえで、彼らと日常的に接する教員の果たす役割ほど重要なものはない。日本政府は、一九九八年の金大中大統領と小渕恵三首相との会談で「二十世紀に起こったことは二十世紀中に清算して、新しい決意で新しい世紀を迎える」との意思表明がなされたのを受けて、日韓両国間の相互理解と交流を深めるため、韓国人教員を日本へ招聘する事業と、日本人教員を韓国に派遣する事業を開始した。この事業は韓国側からも高く評価されることになり、のちに韓国政府が日本人教員を招聘するようにもなった。私もその招聘を受けて、二〇〇六年に二十名の日本人教員団の団長として韓国の学校を視察する機会に恵まれたが、こうした地道な交流を継続することが大事だと思う。
 今日、日韓関係においては、政治外交レベルでは相変わらずいろいろな問題が存在する。他方、一般の市民レベルでは相互の交流が急速に深まっている。その点では、十五年前とは大違いである。特に若者たちは気軽に国境を越えて行動するし、お互いにすぐに仲良くなれる。こうした状況を見ていると、二十一世紀の持続可能な日韓関係を築き上げることは十分に可能だと思いたくなる。ただし、そのためには、両国の政治家たちがしっかりと大局を見据えて、それぞれの責任を果たさなければならない。
 その際、歴史認識の問題をどう克服するかが大きな課題となるだろう。重要なことは、まず過去の歴史的事実を事実として理解することであり、さらに、それを現在の価値観で評価あるいは批判したり、政治やイデオロギーによって歪めたりしてはならないということである。過去を忘れてもいけないし、過去に囚われてもいけない。未来志向で平和に共存できる社会を築き上げることが重要だ。
 そのためにも両国間の交流はもっと増やす必要がある。交流を通じて、お互いの共通点を確認し合い、相違点を認め合う。それが異文化交流の基本姿勢でなければならない。ただし、親しくなると、つい違いを見失ってしまう危険性もある。「親しい仲にも礼儀あり」。互いの文化や伝統を尊重し、違いを認め合える態度を養うことが大切だ。
 他方、相手に迎合するあまり、自分の国のことを必要以上に悪くいったりするのは禁物だ。そういう人は誰からも信頼されない。かつて崔先生が次のように言われたことがある。「自分は李承晩に追われて日本に来たが、我慢して韓国の悪口を言わなかったから今日がある。大山郁夫はアメリカに亡命しても東条英機や日本の悪口を言わなかった」と。先生のように、国際心と愛国心とがバランスよく同居していることが何よりも重要だと思う。
 その崔先生が「桂太郎が偉いのは学校をつくったから」と言われたことがあった。言うまでもないが、桂太郎は三度も総理大臣を務めた軍人政治家で、拓殖大学の創設者でもある。先の李東元先生にしても後藤新平にしてもそうだが、どんな分野であろうと第一級の優れた人物と言われる人には、同時に優れた教育者としての一面が備わっている。実際、日韓談話室で崔先生のお話を聴くたびに、そこに教育者ならではの行き届いた配慮が伝わってくるのを感じる。そのような先生に接することができたことは本当にありがたく、心から感謝している。
 先生はどんなことについてもすぐに故事来歴を語れる博覧強記の人であり、その時その場の雰囲気に応じてもっともふさわしい話題を選び、もっともふさわしい日本語で表現する偉大なストーリーテラーである。そして何よりも、常に温かい心で人をもてなす人間関係の達人である。出会いから早や十五年、いつも先生のお話を伺えるのを無上の愉しみにして日韓談話室の会合に顔を出させていただいているが、この愉しみがこれからも一日でも長く続くことを心から切に願っている。











 崔書勉先生と私
 『崔書勉先生へのオーラルヒストリーと日韓関係』
 静岡県立大学教授 小針 進


 「はい、この靴ベラを使いなさい」――ソウル都心にある崔書勉先生のご自宅兼事務所を訪ね、用件を終えて玄関へ向かった。崔先生もちょうど外出するというので、同時にそれぞれの靴を履くことになった。するとそうおっしゃったのである。杖をお使いになる状況のご自分よりも、昭和三十八年生まれの若輩の私へ「お先にどうぞ」というわけだ。
 ハッとするようなこうした心遣いを、サラッとされるのが崔先生である。崔先生とは二〇〇七年八月に面識の機会を得たが、研究のための定期的に会うようになったのは二〇一〇年一二月からだ。崔先生をよくご存知の大先輩の方々と比べたら、おつきあいの期間は本当にわずかだが、大柄の風格からは想像できない(?)、こうした心遣いに感動する連続である。
 崔先生がお生まれになってからの歩みや体験を聞き書きする研究を、私はほかの研究者仲間と二〇一一年四月から取り組んでいる。解放前後の韓国と戦後の日韓関係を深く知る崔先生に語ってもらい、その記録をする必要があるとの思いからだ。こうした作業をオーラルヒストリーという。これまで金泳三元大統領など、日韓関係に関わった数名の韓国人の要人を対象にしてきた。崔先生への取り組みはプロジェクト(「オーラルヒストリーを基礎とした日韓関係史の再構築に向けた学際的研究」)として、文部科学省から科学研究費も得ている。
 崔先生のオーラルヒストリーは、やっと一九六〇年の出来事ぐらいまで進んだ。植民地時代、解放直後の韓国政局、張勉氏や金大中氏との出会い、盧基南大主教、張徳秀事件と渡日の背景、マザー・キーオ聖心女子大理事長、田中耕太郎最高裁長官、国会図書館アジア・アフリカ課、韓国研究をはじめた契機の話など、どれも興味深い。貴重な記録になるだろう。
 ところで、近年、韓国で日本への関心が低下しているといわれる。かつてはあらゆる分野で日本が先進的だったが、いまはそうではないからだ。韓国の発展は歓迎すべきだが、韓国人の目が日本よりも中国に向いているようで寂しさもある。もちろん、いまや日韓間には年間五〇〇万人の両国民が往来するほど人的交流は活発だ(崔先生が日本に来られた一九五七年の両国間往来者数はわずか数千人)。それでも、政治外交関係がギクシャクしがちだ。
 崔先生から戦後日韓関係の話を聞いていると、日本人と韓国人はお互いを他の国同士とは異なる「特別な関係」だと意識していたように感じる。こうした意識は時には甘えを生むが、だからこそ、今より困難なことが多くても、それを乗り越えてきたのだろう。そして、ハッとするようなこうした心遣いを、サラッとする崔先生のような先人が、それを支えてきたのだと思う。そうした時代が流れてきたファクトを、両国の若者は知るべきだ。











 崔先生と私たち    
 聖心会修道女  嶋本 操


 五年前にもこの会にお招き頂き、皆様の楽しく和気藹藹とした雰囲気と、崔先生が温かく豊かな師弟関係や友情を育んでいらっしゃるお姿に出会いました。それには韓国から多くの恩恵を受け、特に文化的に多くを学びながらも、侵略者となった日本の私たちが、韓国をより深く識り、愛する事が出来るに違いないとのお心が感じられて嬉しかったのを覚えています。
 広尾の聖心会第二修道院で一緒に住んでいた頃、故シスター・ブリジッド・キオを崔先生が、何かのことがあれば直ぐ訪ねて下さいました。和やかに穏やかにシスター・ブリジッドの話しを聴き快く応答しておられ、そばに居る私たちも、印象が深かったのを思い出します。
 シスター・ブリジッド・キオは日本へのミッショナリーでした。彼女は一九五四年に管区長に就任し、その二年後の一九五六年に、ソウルに聖心会の修道院を、一九五七年に聖心女子学院を創設しました。日韓関係が正常化される前のこの時期に、これは大きな決断、仕事でした。日本人のシスター達は最初に派遣されたグループには入れなかったのを覚えています。このような時、初めにシスターキオを韓国の金浦空港にお迎えくださったのは崔先生でした。その時以来先生には何かとお世話になりながら今日に至りました。きっと心強いことだったに違いありません。聖心会としてはまだ韓国の教会と関わりもなかった当時、日本に住むアメリカ人であった管区長が、このプロジェクトを立ち上げたのには深い理由があったと思います。それは全ての人のため、命を捧げたキリストの想いを受け、私たち日本人がその思いに支えられ、韓国といつか平和で尊敬と友情に満ちた関係を築いて欲しいという願いを持っていたのだと思います。この崔先生とシスター・ブリジッドとの絆は、私たち日本人にとって今日も常に新しくされる呼びかけであると感じます。









 崔書勉先生と私    髙橋 初枝


 崔書勉先生を囲む会 ―日韓談話室― の第二回(平成九年一月二十八日)から十五年。
 先生をはじめ皆々さまの多方面からのお話をうかがう事ができ感謝しております。
 このような機会がなければ新聞の見方もかなり違った角度から眺めていたことと思います。
 ことし三月の韓国総選挙「公認争い激化」の文字にも、反応ゼロの状態だったことと思います。
 崔先生どうぞ呉々も御身お大切になさってくださいませ。

 昭和六十一年(六十才)で他界した主人の教え子、寺田佳子をこれからもよろしくお願いいたします。











 崔書勉先生と私  
 ― 崔先生に寄り添い 教えられての十六年が過ぎました ― 
 日韓談話室 世話人 オズインターナショナル 会長 寺田 佳子
 (小河原史郎氏と韓国交流の為に共に興した旅行会社)


一九六六年 その頃 花形だった海外旅行の仕事をしていた私は ソウル・台北へ行かれる国策研究会の矢次一夫先生 小河原史郎氏を鍛冶田進氏にご紹介頂き その豪快さに引きずられ日韓協力委員会の仕事にのめりこんでしまいました。 ところが お二人とも亡くなられ 私はどうやって日韓と係わって行けば良いかと・・・・悩んでいた時
一九九六年日韓協力委員会の勉強会で幸運にも久し振りに崔書勉先生にめぐり会い、今日の崔書勉先生を囲む会―日韓談話室―に続く事となり矢次先生 小河原氏に崔先生との出逢いと三回の幸運を感じております。

最近うれしかった心のつながりがありました。
 二〇〇七年四月四日、柳明桓大使歓迎夕食会の席上でした。私どもスタッフを紹介してくださった崔先生が私の事を「この人は日韓問題があると先ず韓国側に立って考えることから始める有難い人」だと話して下さいました。さすが?・・・私の事を理解して下さっているととても嬉しかった事でした。
 二〇一一年に入るとお会いする度、先生は「死に場所を探しているよ」とおっしゃり始めました。最初は冗談めいた様におっしゃっていたのですが・・余りくり返されるので・・・真剣に考えなければと思うようになりました。
親しくしているご友人、知人を一人また一人と失われお寂しさが募ってくるのでしょう・・・そして、先生はついに
今年四月一日の談話室勉強会の折、終焉の地は日本国、さぬき倶楽部囲む会・・・とおっしゃいました・・・
私は嬉しく感激しております。橋本明氏は一重にも二重にも私たちが抱く思慕の情が決めることとおっしゃっておられます。今は私は病身、十分なお手伝いも出来ませんが、これからも先生らしい沢山の充実した日々を日本で過ごして頂き度いと願っているのです。

「死しても日韓の友情を見守りたい」―男の熱き友情として― 特に「崔先生と私」のタイトルには応えておりませんがこの会での一番電撃的な体験であり崔先生を理解する一つのドキュメントと思い書き添えました。 それは金山政英駐韓第二代大使(一九九七年十一月一日八十八才にて他界)の御遺骨をソウルへ遷送し埋葬式を行った事でした。この行事は崔先生が描いた男の熱き友情の実現だったと思います。先生の指揮の下、「崔書勉先生を囲む会」で凡てを取り仕切りました。
発起人は時の総理村山富市氏、聖心女子修道会前東洋管区長キーヨ女史にお願いし崔先生とお三人、事務局は寺田 で、大使三男成吉氏にもご指導を頂きました。
韓国側は元総理金鍾泌先生、時の国会議長金守漢先生が引き受けて下さいました。 日本人を韓国の地に埋葬する 特別の許可・・・反対デモの中・・・押し通して頂きの実行でした。 私たちは一九九八年八月二十八日崔先生の指揮の下、代表を越智通雄元国務大臣、団長は橋本明元共同通信社記者と副団長塚本勝一 金山大使時代の日本大使館付き武官、そして金山家ご遺族に 囲む会関係者十名の葬送団で訪韓致しました。 埋葬式は金山先生の洗礼名にちなみ聖アウグスチヌの日・八月二十九日 勿論 暑い暑い日ながら秋風の立つ晴天のさわやかな日でした。金南洙ローマカトリック教会大司教様、金玉均主教様が式を取り行って下さり 日本と違う大きな広い墓地に約百人余りの参列者が御遺骨をお見送り大使はついに韓国の地に・・「死しても日韓の友情を見守りたい」と云う大使の強い意志に従い葬られました。このお墓は生前に崔先生のお墓のお隣に用意されてありました。
金山先生 日韓の友人・知人の友情に熱く、厚く見守られ乍らご希望の地 韓国で安らかにお眠りなさい。
この度の韓国側の取り組みの盛大さは、前夜の偲ぶ会、墓地への献花には元首相金鍾泌、元国会議長朴泰俊先生、当時の国会議長金守漢先生をはじめ高名な方々が御臨席下さり、今迄の私の知る韓国とは違い熱い韓国の心に触れられ金山大使・崔先生の人徳、熱意の賜物と感無量でした。
ソウルでは大きなニュースとなり新聞は勿論テレビにも取り上げられました。私までソウルの知人から貴女をテレビで見つけたと連絡下さったりの状況でした。
私達崔書勉先生を囲む会にとって素晴らしい国際親善が出来たと自我自賛大感激でございました。 この行事に関わらせて頂いた私は深く、韓国人である崔先生を理解出来る様になったつもりです。
皆様訪韓の折には、ソウルの北 キリスト教の一山墓地に一人眠る大使に会いにいらして下さる様お願い致します。

 葬儀の後、寄せられた一文の抜粋を御紹介したいと思います。

崔書勉先生
 金山政英の韓国に埋葬されるという事は、それ自体まれなる事であるが、ことに日韓関係の過去の歴史を振り返る時、それは常識ではないと言う事が我々の常識であったにも拘わらず実現出来たのは、金山の遷葬によって日韓関係の未来への関係に何か大きな意味が感じられると思われるのである。
そしてその未来的展開に於いて、金山が「韓国の地に埋まりたい」という決意が、金山死しても尚、する事がある と言う意味をことさら感じさせたれたのである。

大使夫人 金山やす子様
韓国に埋葬される事は主人の強い意志でした。しかし、まさかこれが実現するとは誰も予想もしませんでした。それだけに今は夢の様な気持です。感激で胸がいっぱいです。主人は何時も韓国の事ばかり考えていた様です。晩年、アルツハイマー病に犯されて意識は朦朧としてましたが、それでも、『これからソウルへ行く!』とか、『崔はどうした!』とか、時折口走る言葉は何時も韓国の事ばかりでした。主人が元気だった頃、酒に酔っては愚痴をこぼす事がありました。
『私を理解してくれるのは日本人よりも韓国人だ。』と言うのが口癖でした。
それだけに主人が韓国に埋葬される事についてどんなに喜んでいるかと思うと涙が流れて止まりません。金山は韓国に帰って来られたと言う気持ちだと思います。

大使三男 金山成吉様
おかげさまで、金山政英は韓国とその人々を愛した一人の日本人として栄光に包まれた一生を完結する事が出来ました。私は今回の一連の行事に貫かれている思想を痛感しました。つまり「純粋な心をもった男」にふさわしい葬儀にしたいと言う崔書勉院長の考え方が随所に現れていました。
したがって「利権をむさぼり」、「懐を肥やし」そして組織的又個人的に利権を漁る為、金山政英に接近し利用した品性に欠ける輩は意識的にこの葬儀から厳しく排斥された。そして金山と同じ立場にたって国を思い、韓国の発展の為に尽力してきた人々だけが今回の葬儀に参加が許された。これは崔院長がローマカトリック教会を巻き込んだ大胆、且つ緻密な手法で、死んだ、いわば「異国の戦友」にみせた心暖まる心遣いだと強く感じました。











 崔書勉先生と私    
 日本電動特許株式会社 代表取締役 徳山 謙二朗


 崔書勉先生ほど豪快かつ、気配り目配りに長けた方と私は、今までお会いしたことがない。
会社経営をする仕事がら非常に多くの日本人、韓国人、諸外国の方々との出会いや、日々の支援活動を通じても、これほどの方と出会うことができた私は、とても幸運である。

 普通、人の印象を伝える場合、いろんな人の良い所を足して割ったような人と言うが、崔先生の場合、三国志の登場人物で例えると、「劉備玄徳の人徳・関羽の武勇と義理堅さ・張飛の勇猛と無邪気さ・諸葛孔明の知識と知恵」の全てを掛け合わせたような方である。
私は、崔先生から非常に多くの事を学ばせて頂き、知らぬ間に人生の支えとなっており、「人生の師」と言っても過言ではない。

 崔先生と私は、日韓談話室以外においても、様々な所で偶然お会いする機会が不思議なほど多い。
人との出会いは、一期一会、崔先生と私の場合は、「一期百会」であるかもしれない。

 平成二十四年五月二十六日に開催された「日本上陸五十五年」のお祝いの会では、普段お酒が飲めない私ですが、かつて飲んだことが無いほどの美味しいお酒を頂戴しました。

 一番近い国である韓国と日本の協力関係を進めずして世界の平和は有り得ない。
私達の世代が、今何をすべきか、何をしてゆきたいのかを伝え、これからも末永く崔先生と一緒に平和のための談話と活動をしてゆきたいと願っています。 
 崔先生と談話室皆さまのご健康を心より祈念いたします。











 崔書勉先生と私
 『崔書勉先生と日韓談話室』  長井 泰治


 明治時代の日清戦争中、釜山領事に就任を皮切りとして、戦役後のロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉のさなか、駐韓特命全権公使(現代の大使)に任ぜられ、その後、日露戦争中には韓国皇帝高宗の招きにより宮内府の顧問に就任。しかし統監府時代となるや伊藤博文統監と意見を異にしたため職を辞し日本に帰国した・・・。私の祖父・加藤増雄の事歴については、永く韓国との関わりがあったにもかかわらず、私にはそのような漠然とした経歴しか聞かされていなかった。
 私の現役(広告映像業)引退を機に、祖父の事歴を詳しく調べ直し、ひいては日韓の近代史への関わりを研究してみたいと思い立ち、麻布台の外務省外交史料館に通い始めたのが一九九八年頃。しかし、日韓の歴史については全くの門外漢だった私にとっては史料館の膨大な資料に圧倒されるばかりで、攻めあぐね、只、がむしゃらに資料の断片を集めているに過ぎない毎日だった。
 さして広くない閲覧室内では、常連の研究者が熱心に机に向かっていたが、そのなかでも異様なエネルギーを発散させる人がいることに気が付き始めた。休憩室で一休みしている時にその人から「貴方は韓国関係の史料を調べているようだが、どのような目的なのか?」と声をかけられた。それが崔先生との出会いの始まりだった。先生は自己紹介の後「駐韓公使・加藤増雄の名は知っている。話しをするために飲みに行こう」と誘って下さったものだ。
 クラブ・ジョアで、私からの種々の質問に、先生は明確な答えをされただけでなく、歴史事象を一方向からの観点でなく多面的に検証する必要を、語られたように記憶している。飲むほどに談論するほどに先生の造詣の深さに引き込まれ、ただ者でないことを思い知らされたものだ。とくに伊藤博文のことになると、日本人も知らない伊藤博文像を披露され、私の酔眼には先生の熱弁する姿が、伊藤公とダブって映ったものだった。また、このとき『日韓談話室』へのお誘いを受け、初めて出席してみて、先生が安重根研究の第一人者であることも知ることになった。
 この出会いをきっかけに、先生からは、目的の史料の検索場所をいろいろと教示して頂いただけでなく、韓国文化会館図書室や日韓交流基金図書センターなど史料の存在する場所を紹介され、更には韓国在住のご友人の尽力で、旧韓国皇室関係の古文書など多数も発掘し提供して頂いたものだった。
 極め付きは、二〇〇三年、韓国国史編纂委員会刊行の、先生自身が収録し編纂された外交史料館の『韓国関係資料目録』を頂いたことだ。それまで手探りだった史料の検索が、先生の労作であるこの『目録書』を指針にして、私の資料蒐集のスピードも飛躍的に早くなった。それまでジグゾーパズルの断片でしかなかった史料の一件一件が、歴史の脈略の中で次第にその位置付けが出来るようになってきたことは嬉しい限りだった。
 外交史料館の休館日に国立国会図書館に出かけると、必ずと云ってよいほど、そこでも崔先生にお会いする。寸暇を惜しんで勉強される先生の姿に、怠け者の私も何度か背中を押されたものだ。
 そのような経過をたどるうちに、先生が目標とされる研究と、私の目標とする研究に接点が生まれ始めたため、今度は私が先生の事業の一端をお手伝いすることになり、私が知り得た資料を先生に提供するなど、ささやかなご恩返しをさせていただいていたところ、私の労を多とされた先生のご奔走により、二○一○年八月、ソウルでの光復節式典への出席を挟み、一週間の韓国旅行に娘共々招待してくださったことがある。お忙しい最中、学者でもない市井の素人研究者の私にも、分け隔てなく接してくださる先生の暖かい心情には、感謝の言葉も無い。
 崔先生には銘記すべき語録がたくさんあるが、何時だったかの『談話室』で、「先生が韓国と日本の間を精力的に行き来できる原動力は何か?」との質問に「日本と韓国の異なる文化を理解するように心掛け、双方の良いところを観ているから」と答えられたことがある。一見、何気ない言葉だが、日本人と韓国人双方の深層までを識っておられる先生だからこそ云える、意味の深い言葉だと私は思う。
 ここのところ、聊かぎくしゃくしている日韓の政治だが、世界が混沌としている今だからこそ、日本と韓国の良いところを発見し、理解を深め、知恵を出し会って世界に発信して行くという、新しい時代の歴史をつくる時機になっているのではないだろうか。











 崔先生と私    西ヶ谷 邦正


 本年、二〇一二年は怪物崔先生の日本上陸五十五周年ということで、過去五十五年のご活躍に敬意を表すると共に、以下に記すように、世界情勢、極東情勢、日韓関係も重大な局面を迎えているので、崔先生にはご見識と老練な指導力を発揮して頂き、次の上陸六十周年を日韓談話室で更に盛大に祝えるように期待しています。
 五十五年前といえば一九五七年、日本も独立後わずか五年、高度成長が一九六〇年にスタートする前で私も未成年者でした。それからの五十五年は崔先生だけでなく、日韓両国の誰にとっても、筆舌に尽くしがたい長い、長い五十五年でした。

 私が同郷で千葉高校先輩の故小河原史郎さんの紹介で日韓協力委員会に入ったのが一九八四年、同会の行事で何度か訪韓し、一九九〇年には日韓合同の訪中旅行もありました。その後、日韓談話室にも参加し、崔先生との出会いは二〇〇一年春の、旅順、大連、長春、ハルビン旅行でした。崔先生の人脈の広さ、行動力にはびっくりいたしました。日韓談話室の訪韓旅行にも数回参加し、崔先生の人脈で金鐘泌総理、朴大統領令嬢その他の要人からいろいろお話を伺いました。

 私は本年一月から、パキスタン(JICA)、キルギス(アジア開発銀行)両国へのODA出張が合わせて延べ七回舞い込み、現在そのうち五回が終わったところで、海外出張の連続で五月二十六日の祝賀会にも伺えず誠に残念に思っています。

 本年の海外出張を通じて実感したことは南アジア、南西アジア、中央アジア方面への中国の進出が急ピッチであることと、韓国も独自または中国企業と連携して、同方面にどんどん進出中です。更に付け加えるならば、米国と日本の地盤沈下です。中国の進出は私が訪問した同方面だけでなく、東アジア、東南アジア、更には欧州、アフリカ、中南米にも及んでいるそうです。

 日本経済新聞記者の書いた「朝鮮半島二〇一Z年」という近未来小説が話題になっていますが、すでに中韓貿易が、日韓、米韓貿易の合計額を上回るようになっているので、経済は中韓中心、政治は米韓日軍事体制という「ねじれ構造」の継続は無理があると私は思います。

 また、李明博大統領の「竹島視察、天皇の真摯な謝罪要求」が韓国内では八十五%の支持、日本側から見れば「非常識・無礼」というのでは、日韓両国は同床異夢以下で、とても「近くて近い」関係とは言えないです。

 日本は敗戦国でありながら、政治的には冷戦構造と日米安保に守られ、経済的には経済大国となって周辺諸国に対しては「戦後処理は解決済み」としてきた日本ですが、冷戦構造も終わり、また周辺諸国も経済力を付けてきた今日、従来通りの「解決済み」、「領土問題なし」では難しくなって行くと思います。上記の李明博大統領の竹島視察、真摯謝罪発言も後になってみれば大きな歴史の変曲点となっていることでしょう。

 日韓両国はじめ関係国を正しく導いて、事態を解決できるのはやはり崔先生を置いてはないと思います。関係国は中韓日の他に、更に米国、それに北朝鮮、ロシアが加わると、北京の六か国会議のメンバーが揃いますが。日本人が苦手とする政治・軍事・経済(それも複数国を俯瞰しての)を複眼的に見られるのは崔先生です。崔先生の益々のご活躍を祈っています。    以上











 崔書勉先生と私 『いま寂寥を覚えるならば』   
 日韓談話室 代表世話人 共同通信社社友 橋本 明


 一九七四(昭和四十九)年秋、文藝春秋本誌は気鋭の書き手二人による労作「田中角栄研究」を掲載した。綿密な資料分析は日本のジャーナリズムにおける調査報道のはしりとされ、新聞各紙が追い、田中個人の崩壊を招いた。同じ号に「征韓論を排す」という一文も載る。八月十五日韓国光復節当日、大阪の在日韓国人文世光によって実行された朴正煕大統領夫人陸英修暗殺事件前後の韓国社会を描いた内容だ。筆者は橋本明、私自身である。
 共同通信社編集局が外信部を中心に騒然となった当時、私は社会部デスクだった。覗いてみると水藤真樹太記者がぼやいている。「韓国査証が取れないんですよ、なんとかなりませんかね」
 思い出した人物がいる。藤島泰輔、学習院中等科以来の級友で作家。「この日本に凄い韓国人がいるのを知ってるか。陰の駐日韓国大使とさえいわれている実力者だ」と言っていたではないか。早速電話を入れる。幸い在宅だった。事情を話したところ、「すぐ行こう、オレが貴様を紹介する」と言う。
 ロシア大使館北側路地を入った左手に東京韓国研究院の看板をぶらさげた木造三階建ての洋館があり、院長である崔書勉博士は二人を迎えた。大柄なからだに大きめな顔。豊かな長髪を掻き揚げ「う、何枚ほしいの、二枚か」。初めて崔さんと会った瞬間だった。
 一報その他は共同ソウル支局長が処理している。国葬が行われる数日前に私と水藤記者は悠然とソウルに入った。崔さんの親切は単にビザを取得させてくれただけではなかった。なんと滞在先ホテルの電話が鳴った。受話器を耳に当てると、「崔書勉です。下に来ているから降りていらっしゃい」とおっしゃるではないか。
 崔さんは乗ってきた車に私たちを乗せ、殺害現場となった国立劇場に連れて行ってくださった。「ハングルでは困るだろうから、飛んできた」意表を突く行動力と徹底した思索に心底びっくりしたものである。朴大統領の長女槿恵は西江大電子工学科からフランスに留学中だったが急遽帰国、その後父親が金載圭に殺害された一九七九年までファースト・レイディを務める。葬儀に臨んだ姿を遠望したが、幼さが残る痛々しい様子はいまに焼きついている。
 いま、崔さんは淋しそうだ。日本でも韓国でも親しかった友人知人のほとんどが鬼籍に入ってしまい、語る相手に事欠くありさまである。二〇一二年春、東京で開かれた崔書勉先生を囲む日韓談話室では、三途の川にかかる橋を渡っているとき、とっくに死んだはずの友人に出会った話を披露された。「おまえも死んだんだ」といわれてにわかにはっとしたのだろう、橋を戻って俗世に生還を果たしたという語りを聞いていて、巨人の胸奥に黒々とあいた空洞を見詰めた感であった。
 どうか、お好きな日本でずっとずっと余生を楽しんでいただきたい。当会は急逝した小河原日韓協力委員会専務理事の遺徳を偲んで崔さんが「みんなで集まり、彼を偲ぼう」と発言して成立した会である。爾来、一人として亡くなった仲間はいない。元気虫の私たちであればこそ、崔さんに不自由をかけることはあるまい。











 崔書勉先生と私    廣越 功久


 韓国について殆ど何も知らなかった私が日韓談話室に第一回から参加することになったのは世話人の寺田佳子氏が小学校で同級だった縁です。崔先生という大人物にお会いする機会を与えられたことに感謝しています。談話室に出席して先生や諸先輩から韓国に関わるいろいろなお話を伺うにつれ、韓国という国に親近感を持つようになりました。約二千年に及ぶ長い歴史の中での多彩な交流、途中問題もありましたが深い所で共通して流れるものが沢山あることを教えられました。本当にありがとうございました。
 そのように近い存在になった韓国ですが、実はまだ訪問したことがありません。中途半端な気持ちで訪ねることに抵抗を感じているうちに何年も過ぎてしまいましたが、今年は気軽に考えて初めての韓国旅行をし、新しい展開に繋げたいと思います。そして、崔先生のご健康と益々のご活躍を祈っております。









 崔書勉先生と私 「日韓談話室で学んでいる事」 
  (株) 国際マイクロ写真工業社 代表取締役 森松 義喬


●「友好を育むサークル」ではない
 日韓談話室は 日韓の有識者たちが「談話する会」である。
日韓双方が歴史を顧みて それぞれの立場で意見を述べる。
ゆえに「緊張の場」が少なからず生じる。 それでも毎々人が集まり談話を続ける・・・

●二十七年前
 現在 日韓談話室の中心人物である崔書勉先生との初対面、
「お父さんに孝行をするように!」 と「力強い握手」をしていただきました。その第一印象があまりにも強く昨日の事のように思い出すことができます。「歴史資料を保存・複写する会社」の創業社長である父親に同行して、東京韓国研究院 崔書勉院長とお名刺交換をさせて戴いた時の事です。(一九八六年 港区三田の東京韓国研究院にて)
 後日 崔書勉先生ご自身が「親孝行」をしたくともそれが叶わなかったご事情を知り「力強い握手」のお心 お気持ちを恐縮ながら伺えた気がいたしました。

●閲覧室の主(ヌシ)
 入社当時の私は、父親が創業した会社の営業部として主に記録保存機関(アーカイブズ)を回り、各アーカイブズの命に従いながら「貴重な記録」を「マイクロフィルム化して五〇〇年保存させる」作業を主としておりました。
又それをアーカイブズのご指示に応じて「紙に複写する」「フィルムをデジタル化する」サービスも展開。
首都圏のおもだった史料館・資料館・図書館・文書館・博物館 および大学や各資料室等に出向いておりました。

 崔書勉先生が外務省 外交史料館 閲覧室に毎々いらっしゃることに私は当初より気が付いておりました。
 他のどの閲覧者よりも膨大な史料を山積みにされ、閲覧室の主(ヌシ)のような存在となっておられました。
外務省 外交史料館様において、当社では三十年以上前より史料のマイクロフィルム化と並行して「閲覧者のための複写サービス」を担当させて頂いております。

 閲覧者の方々は崔書勉先生のような歴史研究・政治研究、又は出版関係・マスコミ関係の方々も居られ、最先端の複写技術等を深く理解した方も多く「より高い品質等のご要望」が上がります。又「特異な立場」にある方々もいらっしゃいますので必然と「特異なご要望」も生じます。様々な「ご要望」に応え続けるには更に品質を「ご要望」に近づけ 且つ短納期化するための「技術を開発する体制」が必要不可欠となります。それらの「蓄積」と「三方良しの精神」が商いで有効となり、結果として数多くの「ご要望」こそが会社の柱を築く大本となっております。

●ガキ大将の雰囲気
 崔書勉先生は忌憚なく「ご要望」を言われる複写申請者のおひとりなのであります。当時営業部であった私に
「記録複写の納期まで二週間とあるが 待てない、 五日でやってほしい」との強いご要望に「恐縮ながら 作業は複写申請の順番で行っておりますので五日の納品は厳しいです」 「どうしても早くするように」 「崔様がどちらの国の大臣様であったとしても複写申請の順番を守らなければ不公平となります」 (私は当時 正義感溢れる二十代) 
 崔書勉先生は「なぜならば この文献をもとに研究を急ぐ必要が、あるからである」とその詳細を 若造である私にも理解できるように実直にご説明いただけましたので、私は夜なべをしてでも五日で対応致しました。
 後日 当時社長である父親に「崔書勉様はどのような方でしょうか」と尋ねたところ、日本と韓国の記録を中心に研究されており私が入社する以前から「特例として対応している」との事でした。
その当時の社長である父親も休日返上で「納期の短縮」や「高度な複写」などに対応していたようでした。

 不思議なもので、私も父親と同じように対応しておりました。私は
「韓国・歴史研究者 崔書勉様へのサービスの充実」 というだけではなく
「人間・崔書勉先生の困っている事に少しでも力になれれば」 と感じ、又「昔のガキ大将のような強く優しい雰囲気」の崔書勉先生の喜ぶことをしたく(技術開発も進めつつ)働くようになっておりました。

●「すぐに来れるか」
 私が二代目社長となった後も様々なご要望を用意された上で「すぐに来れるか」とお呼びが掛かることがあります。「今 忙しいのに・・」という状態の時も お会いして帰る時には「無理して時間を作って来てよかった! 」と毎々そのように感じるのです。ある時も「森松くん 外交史料館の待合室まですぐに来れるか」との事、何はさておき駆けつけました。
崔書勉先生曰く
「外交史料館において所蔵されている韓国関連資料をまとめた 『韓国関係史料選定目録』 (崔書勉文庫) が出来上がったので とても嬉しい。それを作るのに協力してくれた内藤くんと森松くんと一緒に記念写真を撮りたかった」
とのことでした。『目録』を持ち写真を撮られる時、崔書勉先生の長年のご努力の一部が大成されて形となった喜びをほんの少しだけ共有させていただけた嬉しい瞬間でした。

●クリスチャン
 史上稀にみる研究者魂の塊 崔書勉先生のその「情熱の源泉」は「周りの人を愛そうと想う気持ち・聖書の唱える心」が基本となっているように見受けられます。
 私個人としては、「研究者」も「企業家」も「政治家」も、「私利私欲」「学閥競争」「党利党略」も悪ではなく、 国益なども見据えながらそれぞれの「生活の安定」と「人格の形成」への試行錯誤の途中経過点であり、それを否定しない考え方もあると感じております。
 崔書勉先生の場合、「それらとの関わり意に介さず」と常に担蕩々とし 我が王道を闊歩する風貌であり、又時に「それらをも強力な味方にしてしまう」人間力を合わせてもっておられるように感じております。
 各研究者は(経営者であっても)その「最終目標」が、「周りの人を自分と同じ様に許し愛おしむ心」それが組織を愛おしむ心となり、自国民・東アジア・世界の人々を許し愛おしむ心へ と繋がるように見据えて歩みたい処です。 又 そうでなければ崔書勉先生のような「愛情を基礎とした情熱」に辿り着く事ができない とも感じております。

●安重根氏
 韓国において熱狂的ファンを有する最たる人 と聞いておりました。
安重根氏 は、国民を愛し 国を憂いながら「東洋平和論」を唱えました。
伊藤博文氏は、国民を愛し 国を憂いながら「極東平和論」を唱えました。
両人の考え方や方法は全く異なりますが、双方の国民の立場となって記録を見るとき、命を賭して「祖国の平和」と「東アジアの平和」を信じ貫いた両人の魂は永遠の存在であり それぞれの祖国で英雄となりつつも、ある意味 両人ともが歴史の中における多大なる加害者 且つ多大なる被害者であると思えてならない。伊藤博文氏のご遺骨は安置されており、安重根氏のご遺骨は未だ確認することができない。
 安重根氏研究のスペシャリストでもある崔書勉先生のサポートをさせて戴きましたが、未だご遺骨は見つかっておりません。現在も崔書勉先生が情報収集なされており、それも期待しつつ今後の可能性を試さなければなりません。

●歴史を「区切る」時
【日韓談話室の方々をとおして感じていること】 
世界中において、壮絶なパワーバランスゲーム・利益争奪戦が絶える事はありません。
「個人 対 個人」とは違い「国 対 国」となれば、明確な証拠・根拠も無く国益を譲り合うことは有り得ません。
 まして隣国韓国であれば、同類のモンゴロイドでもあり 儒教・仏教やキリスト教など 外部からの宗教的な影響を比較的素直に受入れてきた価値観の遠くない国同士であっても、過去より「他国からの防御・国益」の為に「良い意味・悪い意味」において利用し合う事が多発してしまいます。
 戦後から現在にかけても「両国の安寧・発展のため」に双方から多くの優れた人材が「談話」をされ、双方 力を尽くして来られたが、お互いの努力の効果が認められにくい日々を重ねている。

 法人の「運営」の場合、「社会貢献…利益」と「失敗…損失」を毎日・毎週・毎月数値化する。そして一年毎に
「過去に遡り」PL(損益計算書)とBS(貸借対照表)で大きく「区切る」事を行います。双方の数値化された数字から「事実を把握」その「理由を確認」しながら未来に向けて「短期・中期・長期目標を作成」して各部署が協力し合いながら「運営」してゆきます。

 今後 世界又は東アジアの各国間において「過去に各国間でどのような利害を与え合ってきたか」そのようになった本当の理由は何かを列記、再確認が必要。現在友好関係を維持している国 またはそれが難しい国同士であっても「紳士な態度を競い合うような姿勢を維持」し、各国の「記録」から見た「歴史観」を検分し直すための「談話の場」が必要であろう。未来に向けて各国とどう「運営」してゆくべきか? 「未来へのルール」を作る為、「談話の基本」に先ずは「過去に遡り」「事実を把握」「理由の確認」を行い、今一度 歴史を大きく「区切る」時である。

●談話主義(温故知新)
 「未来へのルール」づくりに邁進しようと準備する時、過去に先達方が経験してきた様々な「失敗事例」と「成功事例」を参考にする事が必要である。日本国内の記録を顧みただけでも「反面教師・教師」が多く確認できる。例えば
織田信長から学べる事は、「身分や一宗教に固執しない合理的な思想」「武力による制圧」「主な人物(既得権益者含む)との談話の不足」   (結果…旧既得権益者達も絡んだであろう武力で志半ばとなる)
勝海舟から学べる事は、「世界と東アジア・日本を比較できる視点」「東アジア共存の姿勢」「損得の調整・主な人物(既得権益者含む)との談話を諦めず実行」   (結果…江戸城無血開城を成功) 等からも学習できる。
 歴史学者曰く「新しい社会の規則を作るときに助けとなることは既得権益者の譲歩である」との事、それも頷ける。

 「一度構築された既得権益を得る状態」の人が、後日明らかに「社会の罪」であると判断できる権益となったとしても それを手放した時の様々なリスクを考えると それを持ち続けようと「強引にしがみ付く事」は当然かもしれない。 しかし「その周りに集まる人達」は既得権益にあやかろうと画策する者ばかりとなり、そのような人間の関係では「幸福」とは正反対な精神状態に陥ろう。又自分の中の「善意」に背を向け続ける事ほど悲しく苦しい人生は無い。 そして「社会の罪」を承知で出来上がっている組織であればいつかは「お天道様」・「正義を名乗る他の人達」等から必然と排除されるであろうし、その恐怖から逃げる事はできない。
 排除する側は「見せしめ」とせずになるべく穏便に犠牲が出ないように知恵を出さなければならない。何故ならば「更なる未来における仕組み作り」の時に「社会の罪から脱する為の〝ルールの更新〟」をより行い易くしておく為に 社会の罪となる既得権益者達が 「退陣を恐怖する前例」 を重ねず 「人道的に対応する前例」 が必要だからである。その為には良識ある人々が主体となり「社会の罪」から解放される手だてを事前に用意する必要が生じる。 勝手乍 「社会の罪」とは、「地球環境の保全」と「殺し合いのより少ない世界の平和」に 「逆行する行為」と考えられよう。

 「格物の天地造化におけるは却って易く、人情世故におけるは却って難し」佐久間象山の経験からも「自然の理」を究める折りの「人間の愚かさ」が読み取れる。第二次世界大戦において日本人は膨大な爆弾の雨の下で容赦無く叩き潰され(私の両親が十代の頃)、日本国民は戦争の醜さ卑劣さ苦しさを心底経験し、加害者としても被害者としても絶対に繰り返さない為に、自他を許しながら「世界平和 共存の道」を歩むことを諦めずに現在に至っております。
 今後こそ「世界への貢献の結果を出せた者が賞賛される」仕組み(新しいルール)を真摯に作成し、同時にPDCA(計画・実行・評価・改善)巡回ルールの構築が必要となろう。
「談話」をいくらかさねても 「各国・各個人」の
思想の統一」「感情の共有」を図る  事は不可能かもしれない。しかし「地球環境の保全」と「世界平和」という
目的の統一」「利益の調整」を図る  為のルールを創ってゆく事、それは談話を諦めなければ可能である。 「談話」は「理想」を論ずるのみで終わらせてはならない「現実の最初の一歩」である。

●談話主義(武力と虚言 からの脱却)
 世界各国が「武力と虚言」を後ろ盾に用いず、自他の卑怯を更生させながら「知識と良識」に基づいて(民主・共産 拘らず)先ずは「紳士に談話する主義」を定め、世界中の歴史検証者と良識人が集り 数万時間を費やしてでも「談話を開始するためのルール」を改めて作る時である。
 第二次世界大戦中・後、大量殺戮兵器が様々な国で準備され、国・民族・宗教・利益争奪等の諸問題において、武力的恫喝で駆引きし合う中、「人間」はいざという時にはお互いを許し愛おしみ合う「神の子」となれるのか? 絶えず弱肉強食となりうる「動物に毛の生えたレベル」であるのか? を各人が立証するラストチャンスとなろう。
 先ずは各国間との「談話」において「お互いの過去・歴史の確認」そして今後の「利益分配ルールの作成」、それを実行しようとする時に阻害することが予測される「既得権益者等の確認」そして「その人達に平和協力賞を捧げつつ等の安全な引退の方法・生命と生活を保障するルール」を煮詰めてゆく人物が要求される。江戸城無血開城時の勝海舟の様な命がけで「談話」を諦めず進める事ができる逸材・英雄の登場が必要となる。

●英雄の登場
 崔書勉先生の場合、私が考えている「英雄の要素」がほぼ当てはまってしまうのである。東アジアに在りながら「世界に人脈」を持ち「記録に基づく視点」でものを解釈でき「様々な人たちと談話」を繰り返えされ「多くの人を愛し」そして「人心を大切に扱う」(聖書の教えを実践しようと心がけている)人物と見える。
 崔書勉先生は現実主義者・哲学者の様に見えるが無邪気で涙もろい《映画を見て涙する》。又 強面のガキ大将の様に見えるが弱い者に優しい《女性にも特に優しい》。世界の歴史に強く残る「英雄」の素質‥とも感じております。 日本国にもまだまだ隠れた逸材・英雄が在るはずであり、そのような逸材が東アジアや世界との「談話の舞台」を今一度作りだし、そこに登場して(崔書勉先生と協力し合い)世界の有識者と共に先ずは東アジアの平和・世界の平和へという「共通の目的」への線路の構想を練ってゆく時と感じております。

●日韓の怪物
しかし、崔書勉先生は徹底した「反日思想家」と見える。
【反日の根幹に何があるか! に真剣に耳を傾ける日本人が多くないと思える、その事が大きな原因であろう】
【日本人の多くがそうなっている根幹に何があるか! 】 などを更に深く談話する必要があるでしょう。

その崔書勉先生の周りに なぜ多くの日本の知識人・良識派の人達が集まってしまうのでしょうか ?

 私(知識も良識も欠けるが)の場合、日韓談話室 崔書勉先生を囲む会 に参加を希望する理由は、
・只者ではない日韓談話室のメンバーの方々
・そのメンバーの方々との間において ある程度腹を割って談話する「場」
・そして「日本と韓国」という「場」において(ハーバード流交渉術に例えれば)一階 庭のテーブルでの「談話」を二階のバルコニーから俯瞰できる視点・そして知識・知恵・経験と心を持たれる崔書勉先生方が在り、
・崔書勉先生が見事に采配を振るわれる。時として極東平和・東洋平和 前進への一歩と思える機会もあり、その「談話の場」に参加させて戴くことにより 震えるような緊張感をも経験できるからです。
 若輩・浅学・武勇なきものながらも日韓談話室の末席を十数年にわたり頂戴させていただき 崔書勉先生及び日韓談話室の皆さまに心より感謝しております。
 二〇一二年 崔書勉先生は日本上陸 五十五年となり、五月二十六日のお祝いの会において「花束だけでなく 何か記念になるものを崔先生にプレゼントをしたいよネ」との日韓談話室メンバーの一部の方のお言葉から時間がかかりましたが崔書勉先生への『寄稿集』が皆さまの手作りで作成できました。
 韓国から日本へ世界へと歩まれ、様々な難題に遭遇され乗越えながらの五十五年間、改めてお慶び申しあげます。 通常の人間の想像を遥かに超える日々の蓄積であり、そのほんの一部也を共有させて戴く感動の時に感謝いたします。

「日韓の怪物 崔書勉」 の代理は 神様(something great)がどのようにあがいても創ることはできません。
 これからの崔書勉先生 そして談話室の皆さまのご健康を心よりお祈りいたします。 皆が在る幸せに感謝しつつ
 (乱筆乱文失礼いたします) 二〇一二年 平成二十四年 八月吉日 











 崔書勉先生と私 
 『上陸五十五年 伝説と実像の間』   山下 靖典


かの江戸川乱歩の推理小説「怪人二十面相」風に書けば次のようになるであろうか?
 ある時は 韓国からの亡命者として日本に上陸し
 ある時は 日本社会にどっしりと根を下ろし、決め細やかな人的ネットワークを形成した
あるいは
 ある時は 日韓関係史の研究者として万巻の書と資料に埋もれ
 ある時は 日韓両国の政界を水面下でつなぐフィクサーとして活躍した
あるいは
 ある時は 敬虔なカトリック信者としてキリストに祈りを捧げ
 ある時は 赤坂の韓国クラブに夜な夜な出没して、杯を乾す

日韓談話室の皆様方にはおそらく説明の必要はないのではあるまいか。
院長が韓国の政治抗争に巻き込まれて、米軍機で日本に飛来、亡命のような形で日本に入国した―と言うのは橋本明さんのお話にもあった。
だが、それからの院長は日本の政界、経済界、学会、宗教界などあらゆるところに、ネットワークを展開し、知り合った人々と親しく交わっている。
 初来日から程なくして、国会図書館、外交史料館、大学図書館などに通いつめ、主として日韓関係の歴史についての資料を読み込んだ。
さらには、神田の古書店街にもしばしば出かけ、これぞという書物、資料は金に糸目をつけず買い集めた。 中でも、韓国独立運動の英雄安重根については文献だけでなく、その遺墨を沢山収集してきた。さらに、安重根の遺体を何とか発掘しようと、韓国政府の調査団の責任者を引き受けている。
独立運動関係では、大逆事件の一つ桜田門事件の李奉昌の裁判資料を最高裁に乗り込んで複写することに成功した。李奉昌は昭和七年、昭和天皇の暗殺を試みて爆弾を投げつけたことで処刑されている。
 問題意識の領域は独島(竹島)問題、モンゴル、歴史的地図の収集などにも広がっている。
その一方で、日韓の両国の政治・外交面での水面下に於けるフィクサー的役割も果たしてきたという説もある。 とりわけ、朴正煕大統領と親しく、日本では自民党政治家とチャネルがあったことが背景にあるようだ。
一時は日本の新聞で、韓国政府の資金が院長の研究院に流れている―との記事も掲載された。 また在日韓国人作家李恢成氏の作品のなかでは、院長をモデルに使ったのではないかと思われる人物も登場してくる。
 院長が敬虔なカトリック信者であることも、よく知られている。
洗礼にあたり院長がゴッドファーザー(代父)役を勤めている。代父はカトリックの世界では「親も同然」という重要な役割なのである。
 だが、その一方で、かつては赤坂の韓国クラブで、夜な夜な友人と酒を酌み交わしていた。

崔書勉韓国研究院長(かつての研究院の名前。以下院長)の実像は極めて捕らえにくい気がする。知り合って三十年足らずになると思うが、今日尚、その実像にはなかなか迫ることができないような気がする。無論、山下の知力の足らざるが故でもあるが、同時に院長の幅広く、柔軟な、包容力ある性格もこれまた、その一因かも知れない。
 改めてこれまでの院長の姿、顔、言葉を思い出しながら、この稿を起こしつつ感じる次第である。
山下が院長と初めて知り合ったのは一九八六年のアジア競技大会(ソウル)開催の頃のことであった。 職場の先輩である西村多聞さんのご紹介であった。山下が日韓記者交流という制度で韓国に派遣されることになったので、西村さんから「訪韓の前にあっておいた人が良い人がおられる」とご紹介いただいた。その場はどこかの韓国料理店であったような気がする。
記者交流制度というのは日韓の外務省が両国記者の相互訪問により相互理解を深める―と言うのが狙いのプログラム。一週間程度相手国に滞在し、政府高官のレクチャー、外務大臣表敬、工場見学、観光などが主要メニューであった。山下は初の外国旅行、初の韓国訪問とあって。韓国への知識はほとんどなかった。
学生時代にトライした韓国語学習は挫折し、無論会話は出来ない。
 初めてお会いした時の院長について山下はそのバックグラウンドをよく存じ上げなかったこともあり、もっぱら院長のお話を聞いたように思う。
だが、驚いたのは山下がソウルについてからである。
ホテルに電話があり、ある夜、食事がしたいので漢江のほとりのお店に来てくれとのこと。出かけてみるとそれは「真味」という韓国式高級料亭である。
しかも当時の韓国外務省の権アジア局長もおられた。いわば山下の招聘元ともいうべき方であった。
 一夕ご馳走になったが、山下と食事をするためだけにソウルに飛んだのか(当時は東京滞在期間のほうが長かった)、それとも別の用事があったのかは山下にはわからなかったが、その行動力には舌を巻いたものであった。 以来、折にふれてお会いし、様々な事柄についてご教示を頂くようになった。

 いや、怪人二十面相にもたとえられる多様複雑な側面を持つ院長の実相をあれこれ詮索することはあまり意味がないかも知れない、それよりも、むしろ江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者近松 門左衛門(ちかまつもんざえもん1653年 - 1725年1月6日)の「虚実は皮膜の間にあり」という有名な言葉を挙げておきたい。 これは「物語の、あるいは物事の真実は虚と実の間にある」という意味である。
 つまり、近松の筆法を持ってすれば、院長の真実は様々な「貌(かお)」の間にあるとでもいえようか? さらに言えば、院長の伝説と真実の間のどこかにこそ、本当の姿があるというのだ。

 さらに、山下は一つの願いを持っている。
それは、院長にカトリックの総本山バチカンの大幹部の枢機卿になっていただくことである。
韓国、日本のカトリック界への貢献、深い信仰などからして十分にその資格はお持ちだと信じている。
無論、枢機卿就任には定数、年齢制限などありなかなか困難なことも承知している。
だが、この法王庁には「抜け穴」があるというではないか。
それをたどれば、実現は可能なのではあるまいか?











 崔書勉先生と私    渡井 幹子


 日韓談話室主催の崔書勉先生を囲む会に参加し、韓国を訪問したり、日韓の歴史を多面的に学ぶ機会を得たり、又深く意義のある勉強の場を作って下さっている崔書勉先生と寺田佳子さんに心からの感謝を申し上げたい。
 私は今では韓国文化院で韓国歌曲を歌ったり、合唱を楽しんでいる。閑話休題、次に崔先生とのかかわりの中において特に印象に残っている四点を記してみようと思う。
第一、故金山政英大使の法事で韓国を訪れた折のこと
 崔先生は墓前で「私は金山大使の隣に眠る」とポツリと語った。その時、金山大使に対する崔先生の熱い思いが伝わってきた。と同時に金山大使と心が通い合っている先生の姿を目前で拝見し、お二人はなんと幸せな方達だと強く感じたことを想起している。
第二、ソウル南山の安重根義士記念館を訪れた時のこと
 安重根義士記念館に収められている安重根直筆の高能書から「四書三経」、詩文や、きわめて雄渾な遺墨の数々を鑑賞した時、漢字の家に生れ、強い意志と秀でた頭脳を持ち、高い学問をきわめている安重根の姿を垣間見た思いであった。
第三、金鍾泌元国務総理先生のこと
 日本そばがお好きで、大手町皇居前のパレスホテルクラウンラウンジで夜景を楽しむのがお好きでいらした金鍾泌先生が青山学院大学名誉博士号受賞祝賀会におりて語られた、日本の総理との会談、「大平会談」の内容は特別な思いで拝聴させていただいた。
第四、朴槿恵議員のこと
 ソウル国会内の午餐会に招かれた時のことは生涯忘れることのない貴重な体験であった。美しく気品のある物おじしない態度に魅せられながらも、真近でお話できる良い機会と思い質問を試みた。
「パク・クネさん、ご結婚は何時ですか?」明るく微笑みをたたえ、澄んだ瞳でじっと私を見つめ、美しい声で答えて下さった。
 「私は政治と結婚するのです。」「韓国発展の基礎を築いた父、朴正煕、国民的人気のあった母、陸英修に対する人々の郷愁を考え、そう決めたのです。」と。
 平成二十四年十二月の大統領選挙まであと七か月となった。初の女性大統領へ前進し、「ブレない姿勢」で、高い望みを果たすことを期待したいと思料している。
 日本上陸から五十五周年を迎える崔先生の祝賀会開催、本当におめでとうございます。
 最後になりますが、これからも益々お元気に過ごされ、私達に何かと御教示を賜りたく存じます。





 

 特別寄稿
 『崔書勉と安重根』  『金芝河問題と日本ペンクラブ』







 『崔書勉と安重根』    橋本 明


ポスト田中は誰か
 韓国の歴史を中心にして、北東アジアにおける日中韓三国の近世以降について非常に専門的な研究を継続したのが、崔書勉の東京韓国研究院だった。一九七五(昭和五十)年春、五年間住み慣れた東京都港区狸穴から三田に引っ越した。新たな研究院舎は五階建て、鉄筋コンクリートの頑丈な建物。どの階も大きなガラス張りがほどこされ、明るくどっしりと落ち着いてみえた。
 これまでに「アジアの将来を考える九カ国共同委員会東京総会」「在日外国人教師会総会」「ソウルペンクラブ大会」「第二次国際韓国研究機関協議会」、シンポジウム「韓国にとって日本とは何か」、ゼミナール「日韓条約二〇周年記念」、講演会「日本への直言=新樹会主催」などで主役を演じてきた崔書勉の日本人士、外国要人との交誼は広がりと深まりをみせ、政治家では岸信介、佐藤栄作、福田赳夫、坂田道太、椎名悦三郎、船田中、三木武夫、秦野章らが彼に信をおいた。フォード大統領訪韓と朴大統領との会談内容を椎名に寄せたのは崔書勉である。仲立ちした人物が産経新聞社政治記者藤田義郎だ。北朝鮮の韓国浸透の実態を見て米国は対韓政策を転換し、朴政権への全面支持を約束したのだった。
 崔書勉がいつも大韓民国に良かれと信じて働く行動規範は韓国人として当然の愛国精神に基づいていよう。この意味では私が陸英修殺害事件取材から戻り、佐藤栄作前首相の指示もあって木村俊夫外相に直接電話で「韓国、北朝鮮への等距離・二元外交は誤り。現政権にあらぬ疑いを抱かせる愚策」と指摘した行動と全く同じことだったと言える。木村外相は南北両政権をクロス承認し、国連加盟を推進するという構想を語ったのだが、韓国政府から真意を問いたいとする反応が強かった。当時日本外務省は四百万ドルの輸銀資金を使って北朝鮮を援助する意向だったという。これらの援助資金が軍事費に回される恐れを明らかにしたのは崔書勉と私だけであった。
 藤田と同じく産経新聞社に在籍していた林建彦記者(後の東海大学教授)は「北朝鮮と南朝鮮」について記事を仕立てた思い出がある。掲載された後のことだが、鳴り渡る電話器をとりあげた。相手は一息に伝えたい行事を話した。
「韓国研究院の崔書勉です。あなたの記事を興味深く読みました。研究院主宰のパーティーにお招きします。出席しませんか」
 直裁な、有無を言わせない響きの誘い電話だった。全く面識もなかった人物から受けた不意の申し出だった。国際文化会館に顔を出した林は参加者の多彩な顔ぶれに目を見張る。
 二度目に林が崔院長を訪ねた場所が新装なった東京・三田の新館だった。二十万点の収集資料が初めて公開された記念パーティーに出席したのだ。地下と二階書庫、展示室までところ狭しと収納された朝鮮・韓国の近・現代関係図書、記録、地図の山に林は息を呑んだ。
「崔院長のすぐれた歴史家としての資質は、ダイナミックな直観力と人並みはずれた行動力に由来している」
 林の言である。林は金山国際関係共同研究所所長にすすめられ、月刊研究誌「北朝鮮研究」の責任編集者を引き受けている。
 調査報道(investigative reporting)という取材手法が本格的に日本に導入された時期はまさしく田中角栄首相時代の七四年暮れと言える。新聞記者が血を流して掌中に収めたのではない。立花隆と児玉隆也が文藝春秋本誌でやってのけた事実資料収集と分析が田中を足蹴りにした武器だった。田中の退陣は金脈問題をかわせないと判断したからそうなった。その意味が判明するのは二年後、一九七六年二月五日、米上院多国籍企業小委員会の模様を伝えるニュースが政界の黒幕児玉誉士夫によるロッキード社からの巨額工作資金受領を暴露したときだった。新聞記者は米証券取引委員会(SEC)提供のロッキード事件関連英文資料集を読み、分析し、取材対象を絞り込んでいく過程でようやく調査報道という分野の手法を身につけていった。
 米国ではウオーターゲート事件を追及し、現職大統領ニクソンを失脚に追い込んだワシントン・ポスト紙の二記者がハシリであり、次第に記者の独壇場としての場を確立するのである。
 韓国では日本政治の動向は彼らの舵取りに大きく響く。いちはやく田中の後継者を特定し対処策を練っておく必要がある。朴大統領は近々離任する駐韓米大使シュナイダーをゴルフに招いて取材した。かつて駐日米大使館一等書記官だったシュナイダーは言下に「福田赳夫だ」と答えた。KCIA情報も、自国の駐日大使からも「次の首相は福田」という見解が青瓦台にあがっていた。しかし朴大統領には全く別の筋から至急電が入る。それは驚くべき内容であり、大多数の予想と全く異なる見解を述べていた。
 「次の首相には三木武夫がなる。福田が首相になれば(韓国)に良くて、三木がなれば悪いというような社説が韓国で流布されないようあらかじめ防いでおく必要がある」
 特別注文付きの知らせだった。
「大使、三木が首相になるかもしれないので、一度お調べください。政治というものはわからんものですからね」
 含みを持たせて朴大統領は注意喚起をシュナイダーに与えた。
 二日後、韓国各紙は三木武夫が次期後継首相になったと報道した。中央情報部や駐日大使の面目は丸つぶれだった。驚いたのはシュナイダー大使である。
「やあ、朴大統領はいまの世には珍しく先見の明がある」
 激賞したものである。大統領の鼻は当然高い。至急電報を送ったのは在東京の崔書勉だった。朴は崔書勉に大統領府青瓦台に来るようにと招待状を送った。
「崔院長、あなたのおかげで私は体面が保てたのだが、どうして速く、適確に知りえたのか」
「大統領、私は政治家でもなければ評論家でもありません。ただ、私には良い友だちがおります。産経新聞社政治部出身の政治評論家で藤田義郎といいます」
 日本列島改造という華のある目標から転落した原因は田中角栄の金脈問題だった。七夕投票となった参院選で自民党が獲得した議席は六十六議席にとどまった。福田赳夫、三木武夫は田中の「金権選挙」を公然と批判し、三木は閣僚を辞任、さらに福田も退陣した。自民党の挙党体制はこれで崩壊した。与野党伯仲となった参院の新たな構成自体が台風の目ともなり、暗雲は不気味に厚さを増してきた。
 政局を乗り切るには田中退陣しかない。 副総裁椎名悦三郎の判断は前尾繁三郎、河野謙三、灘尾弘吉、保利茂ら党長老らの共通認識ともなっていた。今後の政治の舵取りを誰に任せるか。田中の後継者選びは自民党副総裁椎名悦三郎に任されたのだった。福田赳夫、三木武夫、中曽根康弘、大平正芳の四人から彼は三木を対象に選考を進めた。これを世に椎名裁定と呼ぶ。本来椎名の胸中に宿っていた次期首相候補は保利茂だったという。意中の人を最終的に引っ込め、椎名は親しくしている藤田義郎を都内のコリアンハウスに呼び、会合。その場で椎名は裁定文執筆を藤田に頼んだ。韓国料亭で会ったのは日本語が通じない場所で秘密保持が可能とされたからだ。これほど確かな情報源はあるまい。椎名と藤田は韓国の受け止め方についても分析した。福田ならタカ派だから結構、三木はハト派だから良くない。このような単純な図式がまかり通るのを防ぐ必要がある、と。
 椎名と別れた足で崔書勉を訪ね、三木に決定の情報を提供する代わりに、崔書勉を通じて意を通す。やはり藤田は百戦練磨の政治記者だった。崔は直ちにソウル在の陸寅修に電報を打ち、これが青瓦台に届けられたのだった。一連の事情と経緯を知った大統領は崔書勉にこう言った。




大統領の希望で紹介
「良い友は院長だけが知っているのではなくて、私にも紹介してくれないか」
 大統領の希望を聞いた崔書勉はその後、藤田義郎、木内信胤、村松剛、大統領の蓄膿手術を手がけた足川雄一(東京厚生年金病院耳鼻咽喉科部長)ら知人を紹介していく。
 大正十一(一九二二)年生まれの藤田義郎が崔書勉と交際を始めたのは一九七二年ホテル・オークラで出会ったときからだ。椎名裁定について藤田が書いた記事によれば、一九七四年十二月一日日曜日、自民党本部総裁室に三木、福田、大平、中曽根を呼び集め「後継総裁に三木武夫君」と一方的に断を下した。傍流の最小派閥で、せいぜい刺身のツマくらいにしか見られていなかった三木だけに、指名された三木本人が「青天の霹靂」と絶句した。それに先立つ十一月二十九日、藤田は崔書勉に次期総裁は三木と告げたことになる。裁定が下った日の夜、藤田は崔書勉と連れ立って三木武夫を私邸に訪ねている。次に藤田が崔に伴われて、村松剛筑波大教授、金山政英、小谷京都産業大教授らと青瓦台での夕食会に招かれたのは同じ十二月十六日だった。
 藤田は「安重根像を一変させた。毀誉褒貶にとんちゃくせず、内に経綸を包み、外に心気浩然、雷同せず孤高を守り、附和を欲せず他を追随せしめるに侠気横溢、その言行一致せざるはない。所詮学者の枠には収まりえない偉物である」と漢文調で崔書勉を描いた。
 足川医博は治療成功にあたって非公式な招待状を受けていたが、朴が金載圭中央情報部長によって七九年十月二十六日射殺されたため納棺された国立墓地にぬかずいた。以降、足川は毎年国立墓地への墓参を欠かさなかった。




マイクロフィルム
 研究院に保存された文書類を永年使用に供するにはマイクロ化が欠かせない。国立国会図書館憲政資料室、外務省外交史料館、防衛庁戦史室、東大社会科学研究所所蔵資料などマイクロフィルムから焼き付けた写真資料が歴史研究に一般化し始めた戦後とは、大阪万国博覧会が開催された昭和四十五(EXPO 七〇)年ころをいう。外務省本省に残された耐爆倉庫に置かれた外交史料室には大型据付写真機から現像機までそろっており、撮影技術をマスターした職員がせっせと操作していた。
 当時から中央官公庁機関の信頼を集め、その技術指導とサービスをしていた民間人が森松幹雄。森松家は江戸時代以前より福岡県八女の家柄であるが、森松幹雄は神戸にて昭和五(一九三〇)年に生誕し戦中を過ごし戦後上京した。  
上京後 昭和二十五(一九五〇)年よりマイクロフィルムの先行企業日本マイクロ写真㈱に勤続して昭和三十七(一九六二)年独立して㈱国際マイクロ写真工業社を創業した人物。
 独立後、貴重な記録資料のマイクロ化に意欲的に取り組んでいたころ、森松は外交史料館に足しげく通ってくる崔書勉を知る。資料複写の様々な注文を円滑に対応してゆく。平成十三年森松幹雄は脳梗塞を患い他界。父親の背中を見つめて育った義喬は風貌も挙措も亡父とそっくりだ。崔書勉院長は世話になった仕事をまるまるムスコ社長に依頼しており良き関係はいまに続く。現在アナログからデジタルまで広範囲に仕事を拡張し、日本一の撮影技術力を誇る会社を目標として「記録資料の保存と活用」による社会貢献を成し遂げようとしている。
 安重根の遺骨調査、旅順での手伝いやそのデータ整理など、安重根関連にかかわる作業に関しては崔書勉先生から料金を一切受け取らずに無償の精神を貫いているようである。日韓談話室の一員である。




研究院の目的と安重根
 狸穴時代、二十畳ほどの広い院長室中央部に、朝鮮虎が四股を踏んでいた。入室者にはぎょっとさせられる虎の目に射すくめられ、その裏側に巨躯をでんと構えた崔書勉が座っていた。新居となった三田の研究院で崔院長は祖国に対して敬虔な気持ちをより強く持ち、人間としても奥行きの深さを際立たせていたように思う。学者である本領とナショナリストである精悍さをさらに磨いたのは三田時代だった。自分史に志士的な要素を刻みつけている崔書勉は、ここでは、広々とした応接室で来客と応対し、研究を志して集まる学者らには宝庫といっていい書庫に案内した。日韓関係史に興味を抱く人々は膨大な資料の中に目指す対象を見つけ出して歓喜に震え、そこから新たな発想を得て論文を書いたりしたものだ。
 たとえばフリーランス・ライターだった木原悦子は神津島に伝わる“おたあ・ジュリア〟という朝鮮貴族の娘について作品を書くため島に渡ったとき、島まつりとでもいおうか、「ジュリア祭」というミサ聖祭に参加した。キリシタンご禁制の日本に来たのは文禄・慶長の役にあたって日本軍の捕虜となったからだが、家康の世になってから神津島に遠島となって没している。招待席に迷い込んだ木原のそばに韓国語を駆使する崔書勉が座っていた。隣の人物は韓国外交官だったが、「席を移りますからどうぞ、この方と」とすすめられ、何者とも知れず、木原は面談の好機をつかむ。
 崔書勉こそ“おたあ〟を発掘した本人であり、その功績によって神津島が感謝状を贈った人物だった。
「そうですか、貴女もお調べですか。わたしが雑誌に発表した論文があります。一部差し上げましょう」
 数日後木原の自宅に一九七三年東京韓国研究院発行の学術誌「韓」五号(通巻十七号)が送られてきた。論文寄贈者は「文禄・慶長の役は今日でも韓国人が対日不信感を抱く遠因のひとつになっている」と記しており、木原は四百年前にさかのぼる豊臣秀吉の朝鮮征伐(七年戦役)が隣国に及ぼした傷の深さに目を開いた。彼女の処女作品となった“おたあ・ジュリア〟はこうして誕生している。
 研究院理事長木内信胤の書いたものに「崔さんのプロフィル」という小文がある。文中このような記述を読んで、私は私なりに納得したので披露しておきたい。
「彼は二十万点に及ぶ資料の整理に、日夜忙殺されているかのごとくである。彼は資料の蒐集整理ばかりやっていたわけではない。韓国はいぜんとして混沌。彼は何をやってきたのか、私は知らない。朴正熙大統領とは大変親密であったように思われているが、それは、韓国研究院の業績を知った大統領が、進んで補助金を給与するにいたったことを見て、世間が持った感覚に過ぎない」
 崔院長をめぐって「影の駐日韓国大使」「怪物」「体制派実力者」など悪口めいて喧伝するやからが多いのは、木内が指摘しているように「下司のかんぐり」を好む卑しい人種の口から出たものだと考えてよい。初対面の折、苦労して日本で暮らし、日韓関係の真の改善のために歴史資料を収集・分析し、常に正道を歩んできた崔書勉の努力に大統領は「感謝します」と素直に敬意を表している。海外で自国の文化に光を当て、正統な関係樹立に私利私欲を忘れて取り組んできた崔の人となりに開眼し、韓国文化海外振興の面で政府として相乗りしようと決め、国家予算に組み入れて東京韓国研究院を支えたのであったろう。潤沢な資金が寄せられてきたからといって、むやみに崔書勉と朴正熙をいっしょくたに混ぜ合わせ、崔を権力者まがいに仕立てて喜ぶ、あるいは批判するのは場違いというものだ。
 韓国研究院の定款に記された目的はその三条に詳しい。
「研究院は韓国に関する政治・経済・社会・文化および歴史の基礎的かつ総合的な調査研究を行うとともに、その成果を保管・普及し、もって韓国についての適正な理解と国際協力および文化交流の促進に、寄与することを目的とする」
 学識経験者は第二次世界大戦後もっとも近いはずの韓国が最も遠い国であることを文化交流、学術交流の薄さに見つめ、改善を求めていた。別の表現を使えば、韓国研究に着手する上でいちばん賢明な方法はなにか、回答を求めていた。日韓正常化が果たされていないため、韓国事情が分からない。つまり学識者らによる個別問題の解説を施せという日常情報の不足=知的飢餓状況の克服。日本研究に来日した外国人が、韓国研究を欠かせないと知ったとき、適切な学術援助を与えるにはどうするべきか。主に三点にわたる問題提起が韓国研究院設立の動機だった。崔書勉はこのように総括する。
 だからこそ、「韓」という名称の学術季刊誌が研究活動の主体性を帯びて発刊され、六九年から八七年まで通巻一〇八号を数えたのである。執筆者は内外の韓国学研究者であって、崔書勉はこの雑誌を私せず、全体で僅か四~五回しか書いていない。編集委員会の自主性を尊び、口出しをしなかった。
 その中で八〇年所管の通巻九十五号に出てくる「日本人が見た安重根」という安生誕百年記念寄稿こそ実は崔書勉が人生を通じてもっとも精魂を傾けてきた安重根研究の深さを物語る。七九年というこの年は朴大統領が命を奪われた年であり、また崔書勉の魂が一時的だが、道しるべとてない闇夜に、浮遊した年に当たる。この際、個人が抱く情を離れて、科学的に覚めた目で、安重根に取り組んできた研究ぶりを追ってみよう。
 まだ一九六〇年代の後半であったろうか、弁護士鹿野琢見は旅順刑務所(中国・大連)に勤務した千葉十七が処刑五分前に安重根から揮毫を贈られたと韓国の新聞に紹介した。揮毫は「為国献身軍人本分 庚戉三月 於旅順獄中 大韓国人 安重根謹拝」(くにのために身を献じるは軍人の本分なり)とあり、記事は大々的に扱われた。元陸軍憲兵曹長千葉十七は明治四十三(一九一〇)年三月二十六日死刑執行の日まで看守隊長であった。遺墨の持ち主は三浦幸喜・くに子夫妻だった。
「生前の叔父は安重根は単なる殺人犯ではない。いずれの日にか、韓国が独立したあかつきには忠臣として再評価されるでしょうと遺言して亡くなりました。実子のいない叔父から私が遺墨を引き継ぎ、その遺言どうり長いこと仏壇に収め、人目を避けて供養してきましたが、世の中が変わり、晴れて故国へ帰られることになって、うれしい…」
 崔書勉にいったん寄贈した折の研究院における贈呈式で彼女は身をよじった。遺墨は韓国陸軍士官学校へ寄贈された。
 早速鹿野は崔書勉の来訪を受ける。昭和五十四(一九七九)年、三浦夫妻の叔父だった千葉十七の郷里宮城県栗原郡若柳町にある菩提寺、大林寺に安重根碑を建立し、揮毫は韓国に寄贈すると決まった。二年後記念碑は完成し、さらに二年後の八三年、揮毫がソウルに戻った。建立式に崔書勉は朝鮮服に身を固め威儀を正して出席した。
 当時、旅順監獄で通訳官を務めていた園木未喜も安重根の遺墨を貰っており、現物は娘の園木淑子から崔書勉に贈られている。向かって右手肩に:贈園木先生、中央に:日韓交誼善作紹介、そして左掌の拓本が左下隅に印されている。
 また処刑に立ち会った栗原貞吉典獄の三女、今井房子は崔書勉の取材を受け、語った内容がテープに録音されて研究院の資料となっている。彼女も安重根生誕百年集会に招かれて挨拶した。
「あのころ私は小学生でしたが、父から家で安重根さんのことをたびたび聞かされました。
父は“あの男は殺人犯ではあるが、処刑するには惜しい立派な人物だよ〟と口癖のように話していました。処刑の時刻が迫り、父は頼まれて羽二重の韓国服を安さんに差し上げました。父は”誠に申し訳ない〟と謝ったということでございます。官舎へは毎日のように多くの韓国人が助命嘆願にみえて、泣いていたのを覚えています」
と。
 朝日新聞で長年警察記者として鳴らしたジャーナリスト鈴木卓郎は七三年十月、港区内の韓国料理店で崔書勉と知り合った。金大中が拉致された夏から二ヶ月余であり、彼の新聞も日本の主権に対する韓国の侵害と論陣を張ったものだ。前に記した李秉禧第一無任所長官が事態解決のため来日し、マスコミの意見を聞きたいと述べ、崔書勉が数人を集めた。そのなかにいた雑誌編集長が鈴木を伴っていた。崔は彼らジャーナリストにこう言った。
「日本は韓国の主権を三十数年に亘って奪ったではありませんか。日本人は他国に主権があることをごぞんじでしたか」
 そう問いかけた。
 鈴木は一本取られたと思った。韓国人の心を知り、帰宅してから日記に「この日は韓国に対する意識変革の日」と記す。その後たびたび会合を持つようになるのだが、鈴木は「安重根という人をごぞんじか」と聞かれたことを思い出す。彼は明治の元勲伊藤博文を銃殺した犯人という程度の知識しか持ち合わせていなかった。金大中事件は金鐘泌国務総理が来日して謝罪し片を付けたが、翌年発生した陸英修暗殺事件では日本が謝罪する側に立つほかなかった。このあたりで鈴木は朝鮮総督府時代の日韓関係史の検証に夢中になる。




崔書勉の研究法
 八二年八月十日の参院文教委員会。秦野章議員(後の法相)が小川平二文相に質問した。
「韓国にとって伊藤博文を暗殺した安重根が英雄なのは当然であり、日本にとっては伊藤博文は偉大な政治家である。これは矛盾するものではなく、そこまで踏み込まないと、国と国との友好は進まない」
 秦野は質問が終わったあと鈴木卓郎に次のような説明を加えた。
「まだ日本では安重根という歴史上の重要人物を知らない政治家、役人、新聞記者が多いので一人でも多く安重根を知ってもらいたくて質問の形で紹介した」
 鈴木に言わせると、日本憲政史上国会の速記録に安重根の名前が乗ったのはこれが初めてだそうだ。
 安重根がハルピン駅頭で伊藤公を銃殺したのは一九〇九年十月二十六日午前十時。桂太郎内閣はその年の七月六日閣議で韓国併合条約を正式に決めている。
「一九〇五年のこと。乙巳新条約(日露戦争後、日本が朝鮮に強要したいわゆる保護条約)が締結され、大韓の独立権は失われて、日本の保護国となった」
 この言葉は自叙伝白凡逸志に金九が書き記した文章だが、金昌洙と名乗っていた青年期の日本軍人殺害事件前後、安重根の父親・安進士と親しく交わっている。二人の関係についてはすでに紹介済みだが、詳述すると、東学党で暴れまわり、敗北した金九が、嫌っていた敵の将軍の下に行けという目上の言を容れて、私淑したのが安進士だった。安重根は黄海道千峰山を越えた清渓洞の邸宅で育った子息である。
 そのころ安重根は十三歳。ちょんまげを結い、頭を紫の布できっちりしばり、トムパン銃という短銃をかついで毎日狩猟に過ごし、元気いっぱいだった。清渓洞兵士の中でも射撃術は抜群で、獣でも鳥でも狙った獲物は逃したことがなかったという。
「安重根ほど知られていない有名な人物はいない」
 崔書勉はしきりに話す。
「例えばね、安重根の身長がいくらで、収監されていた獄舎の部屋の番号が何番であったか、答えられる韓国学者はほとんどいないよ。総論は述べるけれど、各論にはとても弱い」
 研究方法についても崔書勉は一家言を持つ。
「欧米や日本の学者はある特定人物について基本的な研究から始めるが、韓国の学者は原資料もなしに安重根については平気で書き、日本人研究者はひとつの原資料を見るとそれを十倍に増やしてしまい、研究があらぬ方向に行ってしまうきらいがある。日本では安重根伝が十冊ほど出ているが、正しい書物を見つけるのは難しい」
 実証派の崔書勉は国立国会図書館で、一九〇九年十月から一〇年四月まであらゆる新聞、雑誌の中に安の関係資料を求めて読み漁った。探せばあるものである。日本人記者が報道した電報の中に「安重根義士が亡くなった日、ソウル明洞聖堂でミサが挙げられた」という記事を見つける。
 研究者のバイブルとされる引用本に満州日日新聞社が出版した「安重根公判記録」があるが、信憑性は薄いと崔は指摘する。なぜならば、裁判に当たって安重根が陳述したさまざまな説明を通訳する通訳官の翻訳があまりに短く、そのことを安重根が、「裁判長も弁護士も検事も日本人なのに、私の言葉を全部通訳しないで進めるこの裁判は“ショー〟にすぎないではないか」と発言しているからである。
「公判中のこの発言から推理すると、公判記録に書かれていない部分が多いということになります。さらに彼は自分が殺した伊藤を伊藤さまと必ず尊称をつけて話していたが、朝日新聞はわが伊藤公に対して“伊藤、伊藤〟と呼び捨てだ、と嘘を書いた」
 こうして崔は韓国人学者が下した「狭量なる天主教」という説をも、仏人ウイルヘルム神父に四回会い、告解聖事、聖体聖事をし、天主教がこれを受け入れた事実を、満州日日新聞、大阪朝日新聞など六の紙上に見つけて、訂正している。ある日日本で講演する前のこと、伊藤博文の孫という人物から「私みたいなものでも参加できるのか」と電話がかかってきたそうだ。崔書勉はこう答えた。
「伊藤公の息子さんは三人います。長男は駐韓公使、外相を歴任した井上馨の甥を養子に迎えている。二男は隠し子で文吉という。三男が真吉といいソウルで父親と一緒に暮らしていた。三男の息子であれば大歓迎ですよ」
「あなたは韓国人なのだか、日本人なのか分からなくなった。どうしてわが家のことにそれほど詳しいのか」
 大いに感心したそうだ。
 伊藤博文射殺犯を裁く旅順の法院当局は、殺人の正当性を披露する場を安重根に与えたようなものであり困惑したと、まず崔書勉は彼としての視点をここに置く。安重根は論点を日本国民と天皇との関係に立って、日清、日露両戦役に当たって明治天皇が発布した宣戦の詔勅を重視した、と説く。日清戦争開始前首相は伊藤博文だった。天皇が開戦に乗り気でなかったと感じていた。東学党の乱を鎮圧するため清国が朝鮮に軍隊を派遣し、日本も陸奥宗光の意向を入れて若干名の軍隊を駐留させることに明治帝は同意したが、清に主たる動きをさせ、わが国は従の立場から逸脱しないよう求めた。また土方久元宮相が伊勢神宮と孝明天皇陵に奉告する勅使人選で伺いを立てると、「其の儀に及ばず、今回の戦争は朕もとより不本意なり」と退けた。
 いやいやながらの開戦であったが、明治天皇は詔勅で、「朕ここに清国に対して戦を宣す」
とし、国際法に反しない範囲で一切の手段を尽くせ、と明快に述べた。
 天皇から厚い信頼を受けていた伊藤公であるのに“天皇の聖旨に反し、策略と脅迫をもって韓国を保全するどころか、逆に保護国とした〟と旅順獄中記「東洋平和論」を引用し、法廷で陳述した安重根の闘争を崔書勉は安重根研究の土台に据える。崔の調べによれば、明治天皇は世界平和の確立と朝鮮の独立保全を日露戦争開始の詔勅で明らかにしていたことになる。
 結果として、論理的には伊藤公を天皇の叛臣と見る思想経路をたどる。天皇を欺いた男である。国民の意思にも反した政治家である。東洋の平和を害する天下の罪人である……。
「私はその伊藤公を誅したのであり、私の行為は正当である」(安重根)
 このように単独犯安が主張したからこそ、一九一〇年二月、旅順における安重根裁判は彼の正当性を立証する場になった。崔書勉は前提として安重根のこうした姿勢を詰めて行き、「安重根に罪の意識はなかった。正義を実行した自負を身につけ浩然とした態度を貫いた」との信念自体に崔自身の事件に対する立場を固めたのだった。




テロでなく義挙
 鈴木貫太郎内閣の書記官長を務めた迫水久常は「終戦の詔勅」をまとめるに当たって中野正剛に添削の労を負ってもらったが、正剛の息子中野泰雄亜細亜大教授は安重根研究に当たって崔書勉の指導と助言を受けた。父の近代政治史の中身と己自身の見解が、伊藤博文を告発する安重根の見解と重なりあうことを知って、「歴史と審判・:安重根と伊藤博文」を亜細亜大学「経済学紀要」に発表した。
 自分のゼミを聴講していた学生呉忠根が申し出た。
「是非とも先生が知っておかなければならない人がいます」
 東京韓国研究院の存在を一生徒が中野に教えた。中野は早速崔書勉を訪ねた。崔は中野論文を読んでいた。ひととうり話を交わしたとき、中野は崔についてこう考えた。
「崔書勉は千里の馬を得るために馬の骨を買う名伯楽である」
 中野は瞠目したのである。憲兵千葉十七の甥である弁護士鹿野琢見を紹介され、安義士記念館から招請があったとき中野は鹿野、崔、鈴木卓郎とソウルに行き「韓国民の安重根への思いが日露戦争以来の日本帝国主義への記憶と結びついていることを了解し始めた」。
 中野の労作「安重根―日韓関係の原像」は崔書勉の協力を得て発行され、韓国においても翻訳版が二万五千部出ている。福沢諭吉の脱亜論、安重根未完の論文・東洋平和、明治二十六年三月十八日上海で暗殺された金玉均の未だに遂げられていない顕彰…と、崔書勉の研究はこうした学徒を鼓舞し優れた果実を生み出していくのだった。
 ちなみに中野正剛は朝日新聞社政治記者として頭角をあらわしたころ、桂内閣打倒の憲政擁護運動にのめりこんでにらまれ、京城(ソウル)特派員に飛ばされた。泰雄の長兄克明はソウル生まれである。
 時系列で犯行前後の動きを復習してみよう。
 事件より六ヶ月前の一九〇九年三月二十一日、小村寿太郎外相と桂太郎首相は対韓保護政治を打ち切り、韓国を日本に併合することを立案、東京・霊南坂の伊藤博文官舎を訪ねた。伊藤は積極的に同意を与えている。憲政党(旧自由党)を基盤に政友会を結成し、第四次内閣まで主宰した伊藤は、朝鮮を保護国として統監に就任した後も含めて三度、枢密院議長を務めた。
 桂・小村案に承諾を与えた後の四月十日、統監辞任の挨拶を韓国皇帝に為したとき、伊藤は併合のへの字にも触れていない。
「保護政策の実を挙げ立派な独立国に戻るよう祈ります」
 むしろ白々しい挨拶を述べている。騙しおうせた伊藤は満州視察とハルピンでココフツェフ・ロシア大蔵大臣と会談する目的で旅に出る。ウラジオストックを列車で発った一行はボクラチニヤ経由西に進み、黒龍江(アムール川)東岸のハルピン(哈爾賓)駅に十月二十六日午前滑り込んだ。目的は当地まで出迎えたロシア大蔵大臣との面談であった。安重根は既に潜入しており、プラットフォーム東側駅舎(停車場)の北側から二本目に立つ瓦斯塔前付近、ちょうどロシア軍隊儀仗兵列東端背後にいたようだ。筆者の大伯父石光真清陸軍大尉がハルピンを根城に諜報活動を展開していたころから八年を過ぎている。
 川上俊彦ハルピン駐在日本総領事、ロシア大蔵大臣に先導され後部客車から降り立った伊藤公爵は閲兵しつつ中央に戻る形で東に移動した。出迎えの南端に日本代表者、中央に向かって露国官憲、諸外国代表、清国軍隊、露国本部軍隊、日本人居留民会と並んでいる。
 伊藤は歩度を緩め駅舎に向かって斜め右に方向を変えた。目前に並ぶ歓迎陣に接近し、清国軍隊と触れ合うようにしていったん西側へ円を描くようにもとの位置に戻り停車場建物に向かうとき、銃声が鳴った。八の字髭、丸帽をかぶり、ダブルの八つボタンコートで白襟まできっちりと着込んだ朝鮮人が真正面からピストルを連射した。伊藤は倒れた。短銃から発せられた弾丸は四発である。伊藤の面識がなかった安はさらに三発を別の集団に向けて発砲した。
「伊藤公は安重根の短銃で殺されたのではない。ロシア側の同時発砲によるものだ」(富田義文)という異説に対して、韓国研究院の崔院長は二度にわたった現地調査も加え、次のように考察している。
「安重根は直ちにロシアの警備隊員によって逮捕された。その転瞬、彼はウラー・コレアと韓国バンザイを三唱した。憲兵屯所に連行されていく間革命歌を歌っていたというロシア新聞の報道もある。一発ははねて別の角度から飛んだと思われる。ロシアが発砲した事実は立証できない。彼は逃亡の意思など全くなく、公判廷で真実を吐露する決意だった」
「さらに倉知鉄吉外務省政務局長は事件後一ヶ月も旅順に滞在し、伊藤博文暗殺事件が民族間の対立からではなく、あくまで一個人によるテロ行為で殺されたとし、事件の本質を矮小化することに意を尽した。倉知自身が“韓国併合の経緯〟に書いていることである。安重根事件が韓国併合を促進せしめたという論は誤りだ。伊藤は併合に向かって着々と手を打っていた」
 併合という目標をあくまで秘めておき、一挙に公表する道を探ったのが日本政府。崔はこのように考えていく。
 逮捕後安重根はハルピンの日本総領事館で取調べを受けた。韓国併合前の保護国時代、日本は関東都督府を行政執行体として置いていたが、韓国人が外国で犯罪を犯した場合の取り扱いについて日本政府と統監府との間で結んだ司法協定によれば、現地領事館で領事裁判を行い、控訴審は長崎控訴院(高裁)で、としていた。海外における韓国人の犯罪も日本人と同じに扱うという意味であり、小村寿太郎外相は満州も含む旅順の関東都督府法院にもっていった。関東州は日露戦争中、乃木希典とステッセル将軍の休戦会議によって日本の租借となっている。当地は日本外務大臣の所管であり最終責任者は小村外相となる。関東都督府法院で裁判するとの決定は安重根を旅順監獄に移送することを意味した。旅順・大連は満州と中国本土に進出する日本の拠点として、日露戦役後、ロシアが持っていた租借権の委譲を受け、日本が開発と建設に努めた場所である。中国東北地方の金州半島の岬角にあり、天然の良質な軍港を形成し、波穏やかな景勝地でもある。
 一九〇九年十一月一日午前十一時二十五分、憲兵十人、警察官十六人に護送され、安重根はハルピンを離れた。旅順監獄に収容されたのは十一月三日。処刑執行の一九一〇(明治四十三)年三月二十六日まで四ヶ月余の百四十三日間を過ごす。
 当時の旅順監獄人的構成は典獄(刑務所長)栗原貞吉、監吏(看守長)研野熊次郎、中村三千蔵、穴沢貞藤、町田総次郎、松角常太郎、加藤清太郎、大森貞吉からなっていた。加えて一般看守六十一人が勤務した。総勢九十人だった。法院に通う間も、死刑宣告後も厳重な警備を必要とし、憲兵が看守役に狩り出されたりした。
 崔書勉の調べによると、韓国在の統監府は境嘉明警視を旅順に派遣して背景調査に当たらせた。取り調べるうちに境は安重根が特異な人格の持ち主であることに驚く。彼の人柄を知る手段として獄中において自叙伝を書くことを薦め、検察もその執筆を許可した。純漢文で十二月十三日から書き始め、翌年三月十五日に脱稿した自叙伝に安重根は“安應七歴史〟と名づけている。胸に七つの黒子(ほくろ)があったためとされている。
 韓国に来ている日本人は極悪非道、同じ日本人なのに旅順に来ている日本人はなぜにこのようにいつくしみ深くて手厚いのか…と安重根は驚きを綴っている。境についても実に好意的描写と好感に満ちている。
「韓国語がとても上手で、日々ともに談話した。日本、韓国人が意見をやりとりしても、その実、政見は互いに大きく異なるが、個人の人情でいえば、段々近づいてお互いに親密な昔の友人と違うことがなかった」
 監獄の幹部についても人間的な歓びを十二分に表わしている。
「栗原典獄と中村看守長はいつも私を保護して特に手厚く待遇した。毎週一回風呂を使わせてくれたし、毎日午前と午後の二回、監房から事務室に連れ出して各国の上等な紙巻タバコとケーキとお茶で手厚くもてなしてくれたため、満腹になることもあった。三度の食事には上等な白米が与えられ、上等なシャツを着替えに供してくれた。綿の掛け布団を四枚も特別に供給してくれた。みかん、りんご、梨などの果物を毎日二、三個与えてくれ、牛乳も一日一瓶が提供された。これは園木通訳が特別にくれたものであり、溝淵検察官も鶏とタバコを差し入れてくれた…」
 一切拷問を受けることなく思索に、揮毫に十分な時間を割り振れた獄中生活で安重根は東洋平和論の執筆にとりかかる。平石高等法院長が平和論を書くため死刑執行を一ヶ月延期できると言ったため、安重根は控訴を放棄して執筆に没頭したのだった。また揮毫とは、彼が余りに素晴らしい筆致で漢字を書くことから、司法関係者が絹布と紙をたくさん持ち込んだため、希望に添って進呈した果実そのものであった。
 自分の骨はどこに埋葬されるべきか、安重根は年末に開かれた第十二回尋問に当たって境警視にハルピンと告げている。祖国に埋葬すべきでなく、願わくは遺骨は業為った伊藤博文殺害現場にと希望した安重根の願いを発掘したのも崔書勉が取り組んだ研究成果の一つであろう。韓国を占領した伊藤博文に対抗して各地に義軍を興し苦戦奮闘の末ハルピンで勝利を得た事実、韓国独立を見ないうちは故国の地を踏まないとの決意…、これらが遺骨を満州の地に埋め、祖国に主権が回復したあかつきに故国に返葬せよとの願いに結晶した。
 ハルピン駅プラットフォームには「伊藤博文公遭難地点」を示す標識がはめ込み式記念盤としていまに存在し、日本人会館内部には新海竹太郎謹製の伊藤公青銅銅像があることを崔書勉は現地調査で確認している。「往来する人は遭難地点に立てられた銅像に頭を下げさせられた」という韓国で有力だった説は誤伝である。崔は堂々と訂正できたのだった。




遺体は未発見
 問題は遺体の行方である。第二次世界大戦に日本が敗北した日、旅順刑務所では保管資料を焼却した。四九年中華人民共和国による刑務所管理が始まり、残された乏しい史料は散逸した。崔書勉は外交史料館、法務省法務図書館蔵書史料から基本情報を探り、他の資料で補完しながら元宝村にあった旧大島町の旅順刑務所について成り立ちを固める一方、今津弘元朝日新聞社論説副主幹と本人を責任者とする安重根伝記編纂委員会を発足させ、安重根に関する正史編纂に乗り出す。同時に安重根義士墓域推定委員会を設け、処刑後埋葬された場所の特定作業を進めた。
 旅順監獄址は中国政府が指定した文化財保護区にあり、満州経営時代の対日闘争を周知するため、社会教育場として活用されている。二〇一〇年に二〇三高地、水師営など日露戦争関係史跡を含め観光客に開放されるようになり、大連は新たな観光資源として世界的に売り出され始めたところだ。近代増築などにより刑務所の規模など大違いだそうだが、ブルドーザーでならすなど地上工事が加えられたりして、埋葬地が判然としない。
 崔の研究は死刑そのものに絞り込まれた。関東都督府は安重根の強い望みから凶行地への埋葬を図るであろうと考え、民政長官名で遺体を遺族に渡さないと決定した。極悪犯を英雄化するような事態は日本として断固阻止しなければならない重大事であった。崔は日本における研究の助手を務めてきた長井泰治に関東都督府の関係資料を探るよう依頼した。長井の祖父加藤増雄駐韓全権公使は三浦悟朗の後任として閔妃虐殺事件の事後処理に当たった人物であり、長井は日頃祖父の研究に没頭している。
 安自身は自分が処刑されるべき日を二〇一〇年三月二十五日、つまりイエス・キリスト受難の日と定め、典獄や旅順民政署長(警察署長)にその旨上申し、これに合わせて安定根、恭根の弟二人が鮫島町一丁目十六番地の貴豊客桟に旅装を解き、遺体引き取りなどの準備に入った。二十五日はしかし李王朝高宗の誕生日「乾元節」当日であり、国際的にも死刑執行など不吉な執行は日を変えて実施する習いである。死刑執行日は翌二十六日に変わった。
 安重根の兄弟は警察力によって旅館に閉じ込められ、当日午前十時(伊藤公死亡時間)に刑死が確認された後、典獄の呼び出しを受けた。栗原貞吉典獄は監獄法七四条と政府の命令によって遺体は渡せないと二人に通告した。
「しかし遺体に礼拝することを許す」
 栗原に対して兄弟は激しく反論し、怒りを吐露した。
「監獄法七四条は死亡者の親族、故旧にして死体または遺骨を請う者あるときは、いつにてもこれを交付することを得、としている。すなわち遺体を引き渡すという意味である。死刑の目的は被告の人命を断つことによって終わる。その死体は当然遺族に渡されなければならない」
 抵抗する二人をもてあました官憲は強制的に駅まで送り出し、刑事二人を護衛に貼り付け、午後五時大連行きの列車に乗せて兄弟を帰国させた。これら経緯は全て崔書勉が発掘した旅順民政長官が三月二十六日に記した安重根死刑後報告書に盛り込まれている。遺体引き渡し拒否は明らかに日本官憲が犯した国法違反事例である。
 崔は安重根の自叙伝「安應七歴史」を発見入手し、東京韓国研究院名で公開した。死の直前まで安重根が享受できた人間的環境、人づくりを考える教育家であり、キリストを大切にする信仰者であり、優れた時局観と歴史観を持つ科学者だという新たな認識がこの自叙伝によって明らかになった。志の高い思想家という面は安重根に新たな照明を注ぐ契機となり、日韓両国で安重根研究が大きく進んだのだった。東京韓国研究院に寄贈された安重根の遺墨はその都度、ソウルの安重根義士記念館に展示されるようになった。また市川正明青森大教授は未完の東洋平和論の序説部分を発見し、研究はさらに高められた。
 安の自叙伝によれば、明治天皇の戦争の詔勅とは日露戦争開戦のものを指している。原文を分かりやすく拾っておこう。
 日露開戦のとき、日本が宣戦書中、東洋の大義を掲げ、東洋平和の維持と韓国独立を強固にするとありながら、いま日本はその大義を守らず、野心的侵略をほしいままにし、日本の大政治家伊藤博文は自らその功をたのみ、みだりに尊大、傍若無人のように驕はなはだしく、悪きわまり、君をあざむき世界の信義を捨て去った。これいわゆる天にさからうというべく、(中略)いま韓国の形勢危なること、祖国の亡びること朝夕にあり。
 さらに、天皇を欺いて韓国民二千万人が日本の保護を受けるようになった現状を伊藤公の暴行とし、また列強をないがしろにする異端的行為と決めつけた。この賊を倒さなければ韓国は必ず亡びてしまう、東洋自体がまさに存亡の危機に曝されると伊藤暗殺の事由を挙げている。
 当初、安には十二人の仲間がいた。左手の薬指を切り取ってあふれでた血をもって太極旗に大韓独立と血書し、要人殺しを誓う。だが機会に恵まれないままいたずらに時はたち、遂に独歩行を決意、ハルピンに伊藤が来ることを知る。土地の義兵将から金を借りて当面の運動資金百元を確保した安はさらに別人から五十元を調達したが不安は募るばかりだった。二人の協力を取り付けたものの完全に信頼する相手ではなかった。
 彼は午前七時洋服に着替え拳銃を携帯して停車場に行った。プラットフォームにはロシア軍人が多数来ており、安重根は売店の中に席を見つけ二三杯茶を喫して列車到着を待った。伊藤を乗せた列車が到着したのは午前九時ころだった。伊藤の顔を知らなかった安は、小柄な老人でひげを蓄え、ロシア官憲が護衛する人物に狙いを定めて短銃を抜き、四発射撃した。さらに人違いしてはなるまいと思い、前面の偉容最も重い先行者に向かってさらに三発を撃ち込んだのだった。伊藤以外に傷を負わせた行為を安は獄中記で詫びた。




崔書勉は語る。
「いまだに安重根の遺骨は発見されていない。執行後監獄の裏山に一人寝棺の形で埋葬され、その付近を写した写真一枚が遺骨探査の鍵となった。座棺形式でないという特徴は探査上の特質であろう。しかし実地での計測と現地勢との比較に一致点が出てこない。したがってどこに埋葬されたのかわからない。そもそも安重根の遺骸は故国に遷葬すべきだと公式に考えたのは大韓民国臨時政府主席金九でした。大戦直後南北協商を図ってピョンヤンを訪問中、金九は金日成にこのむね提議している。金日成は旅順が現在ソ連の租借地なのでソ連当局の許可が必要、直ちにというわけにはいかない。南北統一後でもいいではないか、と答えたようだ。共産主義を唱えたことのない安重根を英雄として故国に遷葬するような民族主義的行事を行うことは当時のソ連軍政体制下では言いづらかったと想像される」
 安恭根の子ども安偶生はロシア語に堪能で金九の秘書を勤めていたが、金九は彼をピョンヤンに残し、安重根遺骸の故国返送作業について詰めを行うよう言い含めた。金日成はしばらくのち、安偶生を団長とする使節団を公式に中国に派遣している。安重根遺骸発掘を目的とした大連・旅順訪問団だったこと、北朝鮮で「安重根、伊藤博文を撃つ」という映画が完成したことなどから、金日成もまた安重根に高い評価を与えていたことがわかる。義士の出身地が現在は北朝鮮に属する海州だったことも親近感を覚えた一つの事由だったろう。しかしこのとき行われた調査行で北朝鮮は「遺骸探しは不可能、確認できず」という結論を出している。
 韓国では国家報勲処を中心に独立闘争功労者の発掘と顕彰が永年継続して行われている。
外国に埋葬されている愛国志士を故国に戻し、手厚く葬るばかりでなく勲章を授与して名誉を讃える運動だ。当然安重根を故国に迎える熱意、情熱と意義の再確認が韓国で火を噴いた。長井が調べ上げた資料に安重根関連の手がかりは見つかっていない、が、かつて国に貢献した朝鮮人の名簿は多数(二千六百人)発見され、報告を受けた報勲処は大いに感謝した。
 国としても、崔書勉のように民間の学術的努力を注ぐ側にしても、韓国に関する限り、発掘不可能の字はないようである。南北共同に近い形で「安重根義士遺骸発掘推進団」の設置がきまり、崔書勉は二〇一〇年四月末、その「資料発掘委員会」委員長に就任した。たゆみなく発見への努力は継続されていくに相違ない。崔書勉が三次に亘って実施した調査による安重根の墓域は、推定だが、北緯三八度四九分三九秒、東経一二一度一五分四三秒である。(GPS:国際基準前)









 『金芝河問題と日本ペンクラブ』   橋本 明


崔書勉の提案
 東京・四谷の初等科から学習院中等科に進学した私の学級は壊滅した首都東京中心部を離れて武蔵小金井に移り、教員練成所跡地の貧しい木造平屋校舎で戦後の本格的教育を受け始めた。昭和二十一年春である。校舎の東隣りにはこれも横長の木造平屋建て東宮仮寓所が並び、皇太子継宮明仁親王が住みついた。さらに東に紀元二千六百年式典(宮城前)で使われた光華殿が移築されており、西側一部は東宮学問用に利用されていた。
 通勤時間は私の場合鎌倉に住んでいたため片道三時間と長く、往復で言えば滞校時間より余計かかる勘定だった。ろくに窓ガラスもはめてなく、出入りは窓からという満員電車を乗り継ぎ武蔵小金井駅に到着すると、さらに徒歩で三十分田舎道を歩かなければ校舎に行き着かない。
 新入生のなかに藤島泰輔がいた。デメキンと言えるほど目玉が大きく、一組から三組まである教室で一度も同室にはならなかったけれども、ませた少年だった。不良仲間の常連であり、校舎の影でタバコを吸っていた。気の利いた“不良”ならばクラリネットやトランペットあるいはギターなど楽器にのめりこむのだが、軟派の泰輔はよれたレインコートを身にまとい、襟を立て、よたって歩いた。
 藤島泰輔は学習院大学を卒業する前年秋に相当量の小説を脱稿した。頼まれて私は彼に同行し出版社を訪ねては売り込みを図った。講談社に出向いたときだった。応対した編集長はでっぷり型の人を見下した態度を見せ、横柄さにむかついたが、怒ったら話にならない。
「だめだよ、これは。とても出せたものじゃない」
 まったくにべもない。ぱらぱらとめくり読みされてこの発言だったから藤島は蒼白になった。手先が震えるのを必死で抑える姿にあわれを催した。だが、その場をとりつくろって私は藤島を立たせ、この人との会話を打ち切った。
 先輩である三島由紀夫は逆に絶賛を惜しまなかった。ありがたい意見を手中にして奮い立った藤島はついに文藝春秋社から出版許諾の確かな契約を貰う。昭和三十一年春、本は形になった。「孤独の人」である。私は共同通信社に入社し社会部配属となった。藤島は東京新聞社に入社した。出社した当日から東京新聞編集部のありったけの電話器は藤島宛の電話に占領された。文中次のような描写が話題のタネになったと思われる。
 ― 級の中には人と人との友達関係を示す数多くの線があった。その多くは明らかに親友と呼べる関係の線だった。それらの線はふだんは頑強なまでに強靭にむすびついていた。それがこと宮をめぐる利害関係になると、化学変化のように飛びはね、もつれあい、そうして結局はばらばらになってしまう。その例を良彦(泰輔)はいくつも見た ―
 同級内の人間関係を皇太子を中心において観察したのがこの本の中身だった。泰輔にとって平等の立場とは誰とでも等距離を保つことであり、したがって差別なく交際するのが宮の務め、ということになる。皇太子はこれを人間否定と受け取った。級友の誰かを好きになることは自然の流れであり、きわめて人間的なありようだ。
 メディアは新鮮な見方を「孤独の人」に発見し、藤島から談話をとろうとした。彼の勤務は僅か四日で終わる。本来取材に走り回るべき記者が取材対象にされたのでは、周辺が黙ってはいない。初めての作品がベストセラーになる。彼は小説家として徹する道を選ぶ。
 一九七〇年台初頭、藤島泰輔は日本ペンクラブの会員になり、芹沢光治良会長、阿川弘之専務理事、石川達三・高橋健二・中屋副会長の時代に理事に就任した。一九七三(昭和四十八)年五月、藤島はストックホルムで開かれた国際ペン執行委員会に出席している。その前年ユネスコ総会・理事会で中国代表が「非政府機関であろうとも台湾代表を入れるべきではない」と主張しており、国際ペンでも台湾ペンセンターの処遇を議題としたのだった。
「各国ペンセンターはペン憲章に賛同する承認された作家のみによって成立している。であるから政治的な考慮はすべきでない」国際ペンは明快だった。このような配慮は必要ないとしてユネスコ事務局に差し戻した。
 このころアレクサンドル・ソルジェニーツィンの新作「収容所列島」に対する弾圧事件が発生した。ソ連最高会議幹部会議は彼から市民権を剥奪、国外(西ドイツ)追放を決めた。芹沢会長と高橋国際委員会委員長はブレジネフ書記長、コスイギン首相、ソ連作家同盟に抗議文を突きつけた。
 時代の動きが平和で穏健な団体に波及するケースは、団体会員が抱く市民意識を大きく傷つけられたとき、より鮮明な姿を伴って現れるものだ。特に言論、表現、出版の自由が脅かされたとき、あるいはおびやかされるような状況が起きたとき、作家、思想家、編集者、出版関係者が抱く危機意識は「闘争」に質を変えていく。
 朴正熙が自己の軍人的発想に舞い戻り、国のためという美名に隠れて自分の価値観擁護に異常な関心を寄せ、反対者を排除し始めた「維新革命」が起こると、市民生活は非常戒厳令の下で圧迫された。時局を鋭く風刺する「五賊」が発表されると七四年四月警察は作者を全国指名手配する。こうして朴政権による韓国詩人金芝河(キム・ジハ)の逮捕、投獄事件が起きた。極刑を憂慮する空気が国際的に広がり始め、同年五月に開かれた日本ペン緊急理事会に大きな衝撃を与えていく。
 事態の推移を見極めてから行動しよう。日本ペンは直ちに抗議することを避け、可能な限り情報を集めてから態度を決め、国際ペンに報告する態勢を整えた。日本ペンの国際委員会委員長だった高橋健二が欧州旅行に出ていたことも先に延ばした理由である。ソウルの非常軍法会議は七月十三日金芝河に死刑判決を言い渡した。金達寿、李進熙ら在日朝鮮人作家はキム・ジハらを助ける会と呼応し、釈放を訴えてハンストに入った。日本ペン国際委員会は七月十六日高橋委員長、加瀬英明、斉藤襄治、白井浩司、藤島泰輔各委員それに崔書勉準会員(東京韓国研究院)が出席して開かれた。
 韓国ではこの体制下、軍事裁判責任当事者は徐鐘喆国防部長官であり、減刑の権限を握っている。金芝河助命を要請する電文「日本ペンクラブは、貴国の国際的詩人金芝河氏の運命について重大なる関心を寄せている。氏の生命を救うために閣下の特別なる考慮と寛大なる処置を要望する」を翌十七日打電した。
 参考人の立場で国際委員会に出席した崔書勉は発言を求めた。どうぞ、と許され、崔は自分の意見を述べた。
「韓国の裁判は厳しい判決をするが、周囲の反応をみて減刑する傾向があります。このさい、減刑要請に韓国に行けば効果があります。私は国際委員の中で韓国通とみられている藤島理事が減刑要請のため至急訪韓し、国防長官と会って面談するのがいいと考えます」
 高橋の「PEN随想」によれば、かなり強い主張であった。崔書勉は韓国人であり、日ごろ、韓国駐日大使よりも実力を備えた人物というイメージで扱われていたことから、崔発言は重視されるのである。石川達三、高橋健二両副会長と藤島理事は別途協議し、訪韓趣旨をしたためた速達を全理事に出して承認を得ることとした。電話で回答をもとめたところ、ほとんど反対はなかったという。




言論弾圧に非ず
 国際的抗議の高まりが効を奏したのか、七月二十日金芝河は無期懲役に減刑された。これを見て石川、高橋はペン事務局に「死刑を免れたのなら急いで訪韓する必要はない、見合わせたらどうか」と連絡した。しかしこういう場合すばやく行動に移す崔書勉のこと、藤島と白井浩司理事への渡韓準備はすべて整っていた。井口順雄事務局長も含めて三人、韓国まで行けばなおいっそう減刑の方向で働きかけることができるとし、両副会長の判断は棚上げして三人は韓国に向け旅立った。
 ソウル入りした三人は韓国ペンクラブの白鉄会長、李奉来副会長ら幹部、国会議員・与党文教委員会委員呉周煥、新民党代弁人蔡汶植らと精力的に面談する。一連の会見で韓国側が示した見解は、①金芝河の逮捕は政治活動に対して行われた②直接彼の文学作品を槍玉に挙げてなされたものではない―にあり、この見解を一貫して通した。特に蔡議員は「起訴状の冒頭に彼の詩作品「五賊」「蜚語」が記されているのは人物紹介のために過ぎない」と主張した。
 藤島が白井理事と共に国防部を訪ね、徐長官と会ったのは七月二十九日である。握手を終えると長官は「日本ペンクラブからの電報は、裁判に携わる私たちに深刻に考える余地を与えてくれた」と述べた。これに対して藤島は礼を述べ、いっそうの減刑を要請した。ただし、この部分は新聞報道では「藤島理事は金芝河が無期懲役になったことについてお礼を言上するために国防部長官を訪問した」とされ、物議をかもす原因となる。さらに徐長官は藤島らに、キム・ジハの逮捕が北朝鮮の脅威、南北の軍備力、民青学連事件と関連づけるような経過説明をした。
 このあたりから歯車が狂い始めている。長官訪問が終わりホテルに帰ろうとした日本側理事二人を白鉄会長が引き止め、「韓国の記者たちが会いたがっているから、ちょっとでいいから顔を出してほしい」と頼み込んだ。全く予定にない会見だったので二人は気が進まなかった。だが、白鉄会長の要請を突っぱねることもできす、断りきれずに韓国ペンクラブに行く羽目になってしまう。待ちかまえていたのは韓国人記者だけではなかった。日本の特派員たちもあらかた顔をそろえていた。飛んで火にいる夏の虫であった。藤島のナイーブさ、ガードの甘さも手伝って、しゃべらされ、誘導され、思わぬ結果を招いてしまう。
「金氏に死刑判決が出たため、日本ペンクラブは七月十七日助命嘆願の電報を打ったところ、二十日に無期に減刑された。このため国防相に会ってお礼を申し上げるのと、事件についての韓国ペンクラブのお考えを聞くのが目的だった」
 さらに戒厳令下という日本では想像もつかない抑圧にさらされている現状を深く読み下すこともせず、お世辞を口走る。
「日本で報道されている以上に韓国政府が文化政策を重視し、文化人を大切にしていることがわかった」
 翌日の新聞見出しに「訪韓の日本ペン代表語る、“金芝河氏無期判決、言論弾圧と言えぬ”」(読売新聞七月三十日朝刊)などが派手に踊った。では二人の理事は記者会見で何を語ったのだろうか。「日本ペンクラブ五十年史」が取り上げた記録にその内容をたどってみよう。
 恐らく日本ペンも和紙報道だけに頼ったかと思われるが、①金芝河が処罰されたのは文学活動のためでなく、国家転覆資金を民青学連に渡した政治活動のためである②したがってこれは言論弾圧ではない③金芝河事件が言論弾圧と誤解されないよう国際ペンに報告するつもりだ、と発言したことになっており、「当局側の説明を代弁した感じに終わっている」。
 藤島はさらに自分の発言内容を次のように説明した模様である。
「金芝河が無期懲役に減刑されたことに“お礼“といったのは、あくまでもいっそうの減刑を要請するためのマクラのつもりだった」
 日本ペンクラブが減刑要請のため韓国を訪問したと受け止めていた記者側は、そこにお礼という言葉が出たことを重く見たものと思われる。ニュアンスの差が記事に反映された。ソウル発の記者会見報道は日本ペンの体質を疑わせる内容をはらんでいたため、大きな騒ぎとなった。
 三十日午後帰国した藤島、白井両理事は日本ペンクラブに集まった七十人余りの報道関係者に捕まり、一問一答を繰り返した。助命嘆願電報の打電から訪韓までの経過を説明した藤島は韓国における調査活動について、
「ゆき過ぎた行為をすることによって韓国ペンクラブに迷惑をかけてはいけないという点に最も神経を使った。韓国ペンが今度の事件を政治的事件と見ている以上、私たちもそう考えざるを得ない」
と、答えた。
 白井理事はこう発言した。
「ソウルに行って日本ではわからなかった“北の脅威“を強く感じた。現在の政治体制を自由・民主的であるとは思わないが、今回の事件はある程度やむを得なかった」
 朴軍事政権支持とまでは踏み込まないにせよ、作家二人が韓国政治体制に理解を深めた認識の吐露は衝撃を与え、波紋を広げた。一般社会に与えた影響もさりながら、日本ペンクラブ会員が自らの意思で退会通告に走り、ペンクラブの組織上崩壊をもたらす勢いとなる。まず有吉佐和子が事務局に退会を告げ、その理由を報道各紙に談話の形で発表し掲載された。これに習ったのが司馬遼太郎理事、安岡章太郎理事であり、八月二日までに瀬戸内晴美、水上勉、黒岩重吾、立原正秋、瀬沼茂樹、宗左近、寺山修司ら会員が続々退会していった。
 異常事態を前に芹沢会長はジュネーブにて静養中だったが、東京にいた令嬢が電話で容易ならぬ問題が起きたと告げる。事務局からも八月五日緊急理事会を開くと連絡が入った。旅行シーズンのためすぐには航空券が手に入らず、芹沢会長は声明文を書き上げ、電話を通じてこれを発表した。朝日新聞所載七四年八月三日付けによると内容は次の通り。
「この一両日、東京からの電話で、日本ペンクラブの理事二人のソウルに赴いた結果が、日本のジャーナリズムに大きな波紋を起こしていることをはじめて知って驚き、心を痛めているところです。
 かりに韓国ペンクラブの要請があっても、現地で言論表現の自由が抑圧されているかどうか調査するには、現在の韓国の情勢では困難であり、あらかじめ十分な用意と細心の注意とが必要であって、その用意なしに二人の理事が韓国に赴いたことは悲しいことであったと考えます。
 そのうえ二人のソウルでの発言と行動が多くの新聞や電話が伝えるものであれば、これはまったく国際ペン憲章に従って言論表現の自由のために活動してきた日本ペンクラブの精神と伝統に反するものであって、伝えられるところが何かの誤りではないかと、わたしは疑うくらいです。しかし、それが誤りでなく事実とすれば、二人の発言と行動は、二人の個人的なもので、日本ペンクラブでの理事会も関知しないものだとわたしは信じます」
 野間宏が議長に、堀田善衛が事務局長にあった日本アジア・アフリカ作家会議は日本ペンクラブに対し抗議文を送りつけた。
 訪韓両理事がソウルの記者会見で「金芝河氏への有罪判決は文学活動ではなく政治活動に基づくものであり、したがって文学活動に対する言論弾圧ではない」と発言し、帰国後の記者会見でも同趣旨を繰り返したのは、日本ペンクラブが先に行った金芝河への助命嘆願と矛盾するばかりでなく、詩人金芝河に対する冒涜である……。
 組織上の危機にまで及んだ事態をみて驚いた韓国ペンは白鉄会長を八月三日日本に送った。石川副会長ら日本ペンクラブ関係者に事情を説明するためだった。訪問を受けて五日、ソウルでの記者会見時の事情などを聞いた後、石川、高橋、中屋副会長、三浦朱門常務理事は午後四時から七時まで緊急理事会を開いた。出席したのは阿川弘之、巌谷大四、遠藤周作、大久保房男、杉森久英、田辺茂一、徳田雅彦、中村光夫、新田敞、原卓也、村上兵衛、村松剛、矢口純、安岡章太郎、山本健吉。このほか当事者である藤島泰輔、白井浩司だった。
 席上、井口事務局長は藤島、白井両理事から理事辞任届が出ていると述べ、討議し、次のような結論を確認している。
 一、訪韓団発言は個人的見解であり、日本ペンクラブの統一見解ではない。日本ペンとしては韓国に言論の弾圧があると思う。韓国での記者会見自体は訪韓団が犯した手続上のミスである。
 二、今後の収拾策は理事会の責任問題を含め、芹沢会長帰国後結論を出す。理事の辞任届はそれまで石川副会長預かりとする。




野坂昭如、村松剛らの動き
 三人の副会長が記者に会ってこの確認事項を示したが、新聞報道は責任回避に懸命(毎日新聞)、逃げ逃げペンクラブ(読売新聞)などまともに取り扱わなかった。石川達三が責任追及を避け、かばうような姿勢を見せた点は逆に注目されたようだった。九月九日会長帰朝、翌十日の幹部会議で日本ペンクラブ再建委員会を発足させる方針を打ち出した。また芹沢会長は再建委員会発足を期に辞任する意向だと進退問題に触れ、さらにペンの理念は思想・言論の自由擁護と文化交流の二つだが、これからは言論の自由を守ることに努力すべきだと述べた。いわば原点に帰って再生しようと呼びかけたものである。
 これまで外野席で発言していた生島治郎、五木寛之、野坂昭如、藤本義一、三好徹の五人はそれぞれ仲間と語らい、川上宗薫、早乙女貢、半村良も参加して日本ペンクラブに大量入会しようという動きになった。新しい血を注入し、体質を改善し、理事会メンバーを一新するという彼らの意向は衝撃的だった。
 理事の一人村松剛は崔書勉の滞日三十年(一九八七年開催)記念の集いで司会役を担当するなど大変崔書勉と親しい文学者だった。村松は黛敏郎、藤島泰輔と鼎談に名を連ねるなど、藤島とも深い交流を維持していた。だが、「実はね、村松は藤島とは二度と同席しない。相容れない人物だと私に言うようになった。私は、自分と藤島君とは信頼関係で結ばれており、君がそういってもこの関係をひっくり返すようなことを私はしないよと釘をさした」と、崔書勉は筆者に何度も語っている。日本ペンクラブの事実上の崩壊が藤島泰輔の訪韓と発言を原因として発生したことは、脱退、退会文士はいざ知らず、多くの会員がいっせいに藤島に背を向けた意味になる。
 突き詰めれば藤島がもともと持っていた保守的色彩が金芝河問題で剥きだしになったことが騒動のきっかけである。それだけに、藤島がのさばるような日本ペンはいらない、改めなければならない。そういう機運が一気に噴き出した形であった。二十五人に達した入会希望者の中には、小中陽太郎、阿部牧郎、飯干晃一、石堂淑郎、井上ひさし、長部日出雄、川崎洋、新橋遊吉、鈴木いづみ、田辺聖子、佃実夫、筒井康隆、堤玲子、本田靖春、眉村卓、宮原昭夫、森村誠一が挙げられる。
 個人が加入する建前を守りたい石井らは集団加入という形の手続きになじめず、扱いを十月二十四日の緊急理事会まで保留とした。そこでようやく入会を承認し、同月三十日東京會舘で臨時総会を開いた。爆弾発言をやってのけたのが野坂昭如だ。
「土岐雄三常務理事の財政報告にあるように財政的に苦しいペンの訪韓代表たちがなぜファーストクラスで日本―韓国を往復したのか説明を求める」
 高橋副会長は、「金芝河が死刑から無期に減刑されたので訪韓は必要ないと思っていたが、二理事が手続きを終わっていたし、さらに減刑されればよいと考えて送り出した。しかしファーストクラスで行ったとは知らなかった」と説明した。芹沢会長も「これまで国際大会へ出るのでも手弁当で出席する形だったのに…」と発言した。
 小中陽太郎は別の角度からペンを批判する発言をした。
「私はAA作家会議と金芝河氏らを守る会(小田実代表、井出孫六、大江健三郎、袖井林二郎、日高六郎ら)の一員として八月の緊急理事会に抗議の公開質問状を提出したが、ナシのつぶてだ。正規の団体が質問状を出したら回答ぐらい出すようにしてほしい。もっとオープンな運営を」
 筆者は藤島泰輔がこの時点で作家として死んだと思う。このままでは朴大統領を擁護した文化人として、色目で見られるしかないであろう。韓国の為政者にとっては現体制の日本人理解者としてありがたい存在になり得るかもしれないが、日本で足場を失ったのであれば、そのような評価は一文の得にもならない。彼は全てを失った。
 荒正人、北條誠、黛敏郎、桑原武夫、山本健吉、円地文子など三十五人が再建された日本ペンクラブ理事に就任し、定款の目的にある文言「言論の自由を擁護し」を「言論、表現、出版の自由を擁護し」に変えた。
 臨時総会は第六代会長に中村光夫を選ぶ。当日決まった他の人事は山本健吉の副会長、佐伯彰一の専務理事、杉森久英の常務理事で、旬日を経ずして副会長に桑原、常務に土岐が加わった。補充理事には奥山益朗、新田、矢口純、五木寛之、野坂昭如が入った。こうしてペンは再建され、過去四〇年の歴史を一区切りとして再発足した。一九七五年五月には新会長に石川達三が就任した。村松は野坂、土岐とともに常務理事に選ばれた。
 新人の大挙入会は侵略に近い。「四畳半襖の下張り」で出版社締め付けの動きを出版の自由への脅威と受け止めている野坂昭如を例にとれば、石川達三が考える「自由には二つある」信条(七五年六月二十日)と真っ向からぶつかるしかない。一歩も譲れない第一義的な自由と、ある程度譲歩・妥協できる自由があると思うのは、法治国家に住む以上社会秩序との協調は止むを得ない。これが基本的な石川の立場だった。
 新会長の発言から類推すると、「藤島泰輔は若いながら完全な自由などありはしないとの立場において韓国の現状を肯定した人物」という“わけあり論“に立ったことになるだろう。食らいついたのは小中陽太郎、五木寛之、早乙女貢、三好徹ら十五人の有志会員だった。「石川会長発言は、ペン憲章からいって承服しがたい。これがペンクラブの総意だと思われては困る」のだ。言論の自由はあくまでも一つであるのが大原則と主張する若手のアジリ方はアンポ闘争を実地でこなしてきただけに政治的とすらみえた。彼らは会長が「日本ペンは金芝河問題に振り回されている感じがある。政治的問題は避けたい」と発言したとき(七六年四月八日)、彼ら改革派を代表する形で野坂は会長批判を激越に展開した。下張り裁判で有罪判決を受けた直後だったこともあり、反論に立ち上がった石川会長は「野坂君は軽率な自由の行使によって、自ら自由の一部を失うと同時に、我々文筆人の持つ自由もまた、その一部を今度の判決によって奪われた。真に守らなければならない自由のためには、ある程度自主規制しなければならない」と述べ、一歩も退かなかった。
 野坂らは日本ペンを全学連並みに扱った嫌いがある。大人の、文学を大切にする豊かな素地をひっかき、傷つけたのは跳ね上がった彼らの行き過ぎと考える。

 肝心の金芝河は七五年二月十五日朴大統領の「刑執行停止措置」によって十数ヶ月ぶりで出獄した。直ちに「苦行―一九七四年」を発表し、日本向けに「反独裁・韓国連帯」のアピールを出したところ、三月十三日再び逮捕された。
 日本ペンとしては、国際ペンと韓国ペンクラブに電報と書簡を送り、重大な関心を表明した。韓国ペンは再逮捕の直後執行委員会を開き、「一刻も早い解放と、治療を受け、作家活動を続けられるようになることを希望する」趣旨の決議を出した。公判を傍聴して少しでもペンの姿勢を示そうという国際ペンの提案を容れ、土岐常務理事と大野明男オブザーバーが韓国を訪問したのは七六年三月だった。二人に対し、韓国側は「詩人金の逮捕は反共法違反を理由としている。言論・出版活動に対するものではない」とかつて藤島に伝えたのと同様の主張を展開した。
 一連の動きに対して日本ペンが金問題に振り回されている、もう願い下げにしたいと石川が発言したのは七六年四月の理事会席上だった。その後ことあるごとに大いに不快感を表した石川達三だったが、ついに会長職を退いた。七月一日、高橋健二が第八代会長就任を受諾した。さらにいえば、金芝河は結局生き抜き、自由を得ている。
 日本ペンクラブが初めて国際ペン大会を東京で開催したのは一九五七年、川端康成会長の時代だった。共同通信社社会部遊軍記者だった筆者は日夜この行事に出席し報道した。イタリアから「仮想舞踏会」「ローマの女」などの著者アルベルト・モラヴィアが来ていた記憶がある。たしか当時の国際ペンクラブ会長だった。敗戦時から鎌倉市に住んでいた関係から、聞いたり見たりした作家の実物が多数参加している大会はそこにいるだけで価値があった。
 二度目は井上靖が会長時代の一九八四年である。そして二〇一〇年三回目として実に二十五年ぶりに国際ペン大会を東京で開いた。招聘作家とプログラム作成さらには開催資金手当で事務局は多忙を極めた。リーマンショック、さらにはギリシャの破産により世界経済は急速に下降しており苦戦しながら開催を実現した。
 騒ぎが静まったころ村松、小谷ら三人がネクタイを持って崔書勉を訪問した。藤島を助けるあなたとは縁を切る、これはそのための最後の土産だ、と手厳しい。
「日本ペンクラブを私は国のものと見る。韓国ペンも国のものと見る。国として考えるならば、藤島はむしろ両国理解のために貢献した人物だ。ペンクラブを君らは自分の持ち物と見て言動の基礎としている。立場が違う」
 以降、村松剛は崔に心酔したという。
 この章にあたっては吉澤一成事務局長のお骨折りを頂戴した。日本パブリック・リレーションズ協会副会長(サントリー東京広報部長)の要職にあったころから親しい仲である。